私は和子、66歳です。結婚してから長い年月が経ちましたが、最近、夫とともに歩んできた日々に、なんとも言えない寂しさを感じるようになりました。夫は長年、実家の酒屋を受け継いで経営してきました。若い頃から真面目に働き、家族のためにと汗水流して頑張ってくれたのです。私もそんな彼を支えるために店を手伝いながら、一緒にやってきました。
しかし、時代の流れは厳しく、近年の世の中の情勢もあって、酒屋の経営は徐々に苦しくなっていきました。大型スーパーの進出やオンラインショップの普及、そしてお酒に対する消費者の嗜好の変化…夫も懸命に努力していましたが、どうしても歯止めがかからず、ついに店を閉める決断をすることになったのです。彼にとって、これはとても苦しい選択だったと思います。彼は父親から受け継いだ酒屋を守りたかったし、誰よりも大切にしていましたから。
店を閉めたあの日、夫は寂しそうに店のシャッターを下ろしました。私も胸が痛む思いでしたが、彼の表情を見ると何も言えませんでした。それからというもの、彼は急に元気がなくなり、家の中でぼんやりとすることが増えました。まるで、何か大切なものを失った子供のように見えました。
店を閉めるまでは、朝早くから夜遅くまで働きづめだった夫が、急に時間を持て余すようになったのです。最初は「少し休んで、これからのことを考えればいい」と思っていた私も、次第に不安を感じるようになりました。夫が何度も同じ話を繰り返すようになったり、ちょっとしたことを忘れてしまったりするようになっていたからです。それが日に日にひどくなり、しまいには、食事の準備や洗濯の手順さえも混乱することが増えてきました。
ある日、どうしても心配になった私は、夫を病院へ連れて行くことにしました。検査の結果を聞いた時、胸が締め付けられるような思いでした。医師から「この症状は良くなることは難しい」と告げられたのです。夫がこれからどうなっていくのか、私は不安でいっぱいになりました。あれだけ元気だった夫が、こんな風に変わってしまうなんて、夢にも思いませんでした。
夫は昔から、どんなに忙しくても文句ひとつ言わず、家族のために働いてくれていました。時には頑固で不器用なところもありましたが、そんなところも含めて私は彼のことが好きでした。けれど、今の夫は時折、どこか遠くを見ているような目をしていて、声をかけてもすぐには反応しないことが増えました。
病院の帰り道、私たちは手をつないで歩きました。以前なら、こんなふうに手をつなぐこともなかったのに、今日はなんだかそれが自然に感じました。私が先に手を離さなければ、彼はずっとこのまま一緒にいてくれるのだろうか。そんなことを考えると、どうしようもなく切なくなりました。
家に戻ってからも、夫はぽつりぽつりと昔の店の話をしていました。「あの常連さんは元気かな」とか、「新しい商品を入れてみるのも良かったかもしれないな」とか…。彼にとって酒屋は、ただの仕事場ではなく、人生そのものだったということがよくわかります。だからこそ、店を閉めることがどれだけ彼にとって辛かったのか、今になって痛感しています。
夫の記憶が少しずつ薄れていくことに、私はどうしても慣れませんでした。病院で医師に告げられた言葉が何度も頭の中を巡ります。良くなることはない。それなら、せめて今のうちに、できるだけ一緒の時間を大切にしたい。そう思いながらも、これからの日々がどのように変わっていくのか、私は恐ろしくて仕方がないのです。今はまだそれほどではありませんでしたが、いつしか夫は私のことも忘れてしまうのではないか。そう思ったら切なくなるどころではありません。あの頃は良かったと思っても何もなりませんが、それでも思ってしまうんです。夫が酒屋を経営していた頃のことを思い返すと、心が温かくなります。彼はいつも忙しそうに働いていましたが、その姿には生きがいが溢れていました。朝早くから仕入れに出かけ、帰ってきたらすぐに商品の整理や陳列を始める。彼は「酒は文化だ」と言い、こだわりを持ってお客様に一番良いものを提供しようとしていました。そんな夫の姿を見ていると、私も嬉しくなり、自然と手伝いをする気持ちになりました。
特に印象的だったのは、常連のお客さんとのやり取りです。いつも顔を見せてくれる方々と、彼はまるで友人のように話していました。お酒の話をしながら、笑い声が絶えず、店の中はいつも賑やかでした。お客さんが喜んで帰っていく姿を見ると、夫の顔は満足そうにほころび、私もその様子を見て幸せを感じていました。ところが、今ではその賑やかな日々は遠い過去のように思えます。夫の変化に気づいてから、私の心は重くなり、どんどん苦しくなっていくのを感じました。彼が少しでも元気でいてくれれば、私も安心できるのに、どうしてもその思いが叶わないのです。そんなある日、私は体調を崩してしまいました。
毎日の家事や夫のケアに追われ、自分の体を大切にすることを忘れていたのです。気づけば、体がだるくて動かなくなっていました。どうしよう、夫に頼むのは難しいと思いました。彼は私の状態に気づいているのか、それとも何も感じていないのか…不安な気持ちが心を支配しました。それでも、食事の準備などは自分でしなければと思い、何とかキッチンに立ちましたが、力が入らず、結局うまくいきませんでした。そんな時、突然夫がキッチンにやってきました。「和子、これ食べて体温めて休むんだぞ?」と、彼はおかゆを作って持ってきてくれたのです。優しい笑顔を浮かべた彼の姿を見て、私は涙が溢れ出てしまいました。その言葉は、夫が私に何度も言ってくれた言葉でした。私が体調を崩していたとき、彼はいつも私のことを気遣い、心配してくれました。そのことを今でもしっかりと覚えていてくれたのだと、嬉しさと同時に切なさがこみ上げてきました。夫が少しでも昔のことを覚えてくれていることが、私にとってどれだけ支えになっているのか、言葉では表せません。
彼が持ってきてくれたおかゆは、温かく、優しい味がしました。夫が作ってくれたことを思うと、心が温かくなります。少しでも彼が私を思い出し、私を支えようとしてくれていると思うと、私はその瞬間に感謝の気持ちでいっぱいになりました。「ありがとう」と何度も言いたいのに、言葉がうまく出てきません。ただ、彼の優しさに涙が止まらなかったのです。
私たちの間には、言葉にできない何かが存在していました。それは、互いを思いやる気持ちや、共有した思い出の数々。今、目の前にいる彼は、昔の夫とは違う姿になってしまっているけれど、心の中には変わらないものがあると信じたい。私も彼と共に、これからの日々を大切に過ごしたいと思います。
これからどのような日々が待っているのか、予測もつきませんが、少しでも寄り添い、共に笑い合える瞬間を大切にしたいです。夫が私を支えてくれると同時に、私も彼を支える存在でありたい。その気持ちが、私たちの絆を強くしてくれると信じています。
こうして、夫との日々は少しずつ変わっていますが、私は彼との時間を愛おしく思いながら、これからも彼と寄り添っていきたいと思うのです。どんな困難が待ち受けていても、彼と共に乗り越え、笑顔でいられる時間を一緒に作っていけたら、それが私の一番の幸せなのですから…
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