「それじゃ、行ってくるよ」夫が嬉しそうにあの人の所へ向かう。ドアの閉まる音が、静かな家に響いた。
「さて、私もそろそろ出ようかな」。こうして私たち夫婦は、日頃のストレスを発散するために定期的に別々に行動する日を作っている。その日は何をしているのか詮索しない。お互いが浮気をしていても文句を言わないというルールを作った。しかも、お小遣いも各自１万円ずつ自由に使っていいことに決めたのだ。年金生活者にしたら大金だ。
この日はお互いが何をしようが詮索しない！これがルールだ。こういう日を１カ月に１日作るだけでも、お互いすごくリフレッシュされるようになり、人生が今が一番楽しいと思えるようになっていた。
私の名前は恵美子。こんな変わったルールが出来たのには、ちょっとしたきっかけがあった。
定年後の夫婦関係は、これでもかというくらいのギスギス、いがみ合いが続いていた。夫は定年退職後、何をしていいのかわからず、ただだらだらとテレビを見て毎日を過ごしていた。無趣味な上に、だからと言って新しい何かを始める情熱もなく、さらに動かない生活が続いたことで体力もなくなってきていた。
始めのうちは私も我慢していた。だが、その暮らしが１年も続いた時に、ついに私はブチ切れてしまった。
「あんたの家政婦じゃないのよ！することが無いなら、外で何か仕事を見つけてみたら？」と猛烈に怒ってしまったのだ。夫はびっくりしながらも、「何しても怒るじゃん。『私がやるから触らないで！ちゃんとしてよ！なんでできないの！』って毎回毎回言われたら、そりゃ手伝う気すらなくなってくるよ」と反論してきた。こうなってしまってはお互いヒートアップして大ゲンカになってしまった。
その日から１週間、お互いほぼ口もきかなかった。それを見かねた娘が、あるチラシを持ってきた。そのチラシは、老後の交流会の案内だった。娘に言われ、仕方なく参加することにしたのだが、案外参加してよかったと今では思っている。
始めはお酒も入りながらの食事会。その中で交流しながら気の合う人を見つけていく。さながら婚活パーティのようだった。そこである仲の良い先輩ご夫妻と出会った。そのご夫妻が言うには、異性の他人と話すこと、別々の趣味をつくることが夫婦円満の秘訣だよと教えてもらった。ずっと一緒にいるからダメなんだそう。
そして、その趣味にかけていいお小遣いを決めて、その範囲内なら絶対に文句を言わないこと、仮に浮気に走ったとしても、もう子供が生まれるわけじゃないんだから笑って許しなさい、心が動くことが大事なんだよとご教授いただいた。老後は寿命が尽きるまでの期間じゃないんだよ、今が一番楽しいと言えるようにしないとね、とのことだった。
それから何度かパーティに参加するうちに、夫は釣りクラブの輪に入ることが多くなっていた。その輪には美人な奥様がいたので、それがきっかけかもしれないが、最近では釣り竿を買おうかなどと言っていた。その女性に話しかけられデレデレしている夫を見て、ちょっと嫉妬心も出てきたが、嬉しそうにしている夫を見てなんだか微笑ましくなった。
私も陶芸にハマりそうになっている。陶芸教室の先生が私の手の上から教えてくれる時、こんな年になってもドキドキしてしまう。お互いの趣味が見つかってからは、今までのギスギスした空気がかなり改善された。それどころか、夫は週３回、知り合いの手伝いとして働きに出るようになった。後で聞くと、趣味に使える金額を増やしたいからとのことだった。
先日のおでかけの日の帰り、夫がプレゼントを買ってきてくれた。結婚してから初めての花のプレゼントだった。外に出て行っても私のことを考えてくれているのが正直嬉しかった。
こんな風に大ゲンカから始まった交流会への参加だったが、夫婦仲は格段に良くなった。正直今でも、釣りクラブのあの人の名前を出されるとイラっとする。だけどルールだから何も言わない。嫉妬をする程心が若くなったんだなと感じるようにもなっていた。お互いストレス発散を出来るようになったことで、今では夫婦で会話も増え、仲良くなれた気がする。
そして今日も、また別々の道を歩き出す。私は陶芸教室へ、夫は釣りへ。それぞれが楽しむことで、二人の絆がさらに強くなる。それが私たちの新しい夫婦の形なのだ。
家に帰ると、夫が先に帰ってきていた。彼はキッチンに立ち、何か料理をしていた。普段はあまり見ない光景に驚きながらも、私はそっと彼の背中に近づいた。
「何を作っているの？」と尋ねると、彼は振り返って笑った。「今日は釣った魚を使って料理してみようと思ってさ。いつも恵美子に任せっぱなしだから、たまには俺が作ろうかなって」出来上がった料理は、お世辞にも美味しくはなかったがその気持ちが嬉しかった。そして私が喜んでいるのが嬉しかったのか、夫は酔って寝てしまった。ウロコが飛び散ったキッチンの残骸と洗い物を残したまま。まあ今日は許してあげるかぁ。
