
週末の夜、会社帰りにふと立ち寄ったバーのカウンターで、俺は一人グラスを傾けていた。ビルの窓には雨のしずくが流れ落ちている。天気予報では晴れだったはずなのに、夜になって突然降り出した。俺は傘を持っていない。帰るタイミングを逃し、ダラダラと酒を飲んでいた。
「圭吾くん?」ふいに甘い声が耳に届いた。振り返ると、そこに立っていたのは 沙耶さん だった。
「……沙耶さん?」思わず名前を口にすると、彼女はにこりと微笑んだ。視線が合った瞬間、胸の奥がざわつく。
「やっぱり圭吾くんね。久しぶりね、もう大人の男になっちゃったのね」その声には、かすかな驚きと懐かしさが混じっている。
俺も、目の前の彼女を見て驚いた。
——沙耶さんは、あの頃よりも ずっと艶っぽくなっていた。
シンプルな黒のワンピース。鎖骨のラインがすらりと美しく、緩やかにカールした髪が肩にかかる。首元には小さなダイヤのネックレスが光っている。
昔から綺麗な人だったが、40代になった今、成熟した色気が加わっていた。まるで別人のように見えるのに、それでいて、あの頃の記憶が鮮やかに蘇る。
「沙耶さんこそ、全然変わらないですね……いや、むしろ、もっと」
「もっと?」
「……色っぽくなりました」俺がそう言うと、沙耶さんはふっと微笑んだ。
「まぁ、お世辞でも嬉しいわ」軽やかに笑いながら、彼女は俺の隣の席に腰を下ろした。
「勇人とは、最近会ってる?」
「いや、あいつ、結婚してから忙しいみたいで」
「そうね、実家にも全然帰ってこないもの。だから、私も一人になっちゃったの」そう言った彼女の笑顔の奥に、一瞬だけ寂しさが滲んだ気がした。
「寂しいんんですか?」
「どうかしら。誰にも気を使わなくていいのは楽だけどね」グラスの縁を指でなぞりながら、沙耶さんは静かに言った。
指先が細く、しなやかに動く。その仕草ひとつで、俺の意識は彼女に釘付けになる。
「ねぇ、圭吾くん」
「……はい」
「久しぶりに、うちに寄っていかない?」俺は、その誘いに一瞬言葉を失った。
「え……?」
「何もやましいことはしないわよ?」冗談めかした言葉。
けれど、その瞳の奥にある微かな期待の色を、俺は見逃さなかった。そして、俺の中には、今も消えない記憶があった。
中学時代。
勇人の家に入り浸っていた俺は、ある日、リビングでゲームをしている最中に何か白いものが目に入った。ソファの隙間に、それは挟まっていた。何気なく手を伸ばし、引っ張り出した瞬間、呼吸が止まる。それは、女性用の下着だった。
見た瞬間、異常な高揚感が全身を駆け巡った。
「っ……」鼓動が早まる。
その場に捨てるべきなのに、なぜか俺は、その小さな布を握りしめていた。確信していた。これは、沙耶さんのものだ。
俺は、衝動に抗えなかった。そして、気づかれないようについポケットに押し込んでしまった。
それ以来、俺は沙耶さんを意識するようになった。
彼女の仕草、声、香り、すべてが俺の心をかき乱した。単なる「友達の母親」ではなく、俺にとって 特別な存在 になったのだ。
沙耶さんは勇人の父の後妻で、俺が中学生だった10年前でちょうど30歳だった。
母さんやおばさんと言われるのが嫌で、勇人にも名前で呼ばせていたのを思い出していた。
俺は、グラスの中で揺れる琥珀色の液体を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……じゃあ、お邪魔してもいいんですか?」
「ふふ、もちろん」沙耶さんは、俺を誘うように微笑んだ。俺たちは店を出て、雨の降る街へと歩き出した。
タクシーの中、沈黙が続く。ワイパーが雨粒を払う音だけが響いている。
「……緊張してる?」沙耶さんが、ふとの俺を見た。
「え?」
「顔、少し赤いわよ?」
「……酒のせいかもしれません」そんな言い訳をしてしまうくらい、俺は動揺していた。それに気づいたのか、沙耶さんは微笑む。
「かわいいわね、圭吾くん」
「……からかわないでください」そう言いながら、俺は沙耶さんの横顔を盗み見る。
彼女は、俺がかつて憧れたままの存在だった。
けれど、今はもう——手の届かない相手ではない。車は、静かに目的地へと向かっていた。
沙耶さんの家に着いた。車を降りると、雨の匂いがほんのりと漂っている。
玄関の鍵を開ける沙耶さんの指が白く細い。ドアが静かに開くと、暖かい室内の空気が俺を包み込んだ。
「どうぞ、楽にしてね」沙耶さんはそう言いながら、ソファに腰を下ろす。リビングは昔とほとんど変わらないが、勇人の部屋はなくなっていた。この家は、もう 彼女だけの空間 になっている。
「ワインでも飲む?」
「……いただきます」俺はそう言いながら、彼女の隣に腰を下ろした。ワインの瓶が傾き、深い赤色の液体がグラスに注がれる。
沙耶さんがグラスを持ち上げ、微笑む。
「乾杯しましょうか」
「はい」カチン、とグラスの縁が触れ合う。沙耶さんは静かにワインを口に含む。
グラスを持つ指先が細く、しなやかで、俺の視線を捉えて離さない。
「圭吾くんって、お酒強いの?」
「そこまで強くはないですけど……今日は、大丈夫ですよ」
「ふふ、そう」沙耶さんが、グラスの縁をなぞる。
その仕草を見ているだけで、喉が渇くような気がした。
「ねぇ、圭吾くん」
「はい」
「あなた、昔から私のこと……見てたでしょ?」指先が、そっと俺の膝に触れた。俺の心臓が跳ねる。
「……どうして、そう思うんですか?」
「だって、わかるもの」沙耶さんは、俺を見つめたまま微笑む。
「私ね……あの頃から、なんとなく気づいてたの」
「……え?」
「圭吾くんが……私のこと、見てたこと」心臓が跳ねる音が、自分に聞こえそうだった。
「私はね、勇人の友達として接していたつもりだった。でも……」沙耶さんは、ワイングラスをテーブルに置き、ゆっくりと俺の手を握った。
「でも、今の圭吾くんは……もう、子供じゃないものね」その言葉とともに、彼女の指が絡む。もう、引き返せない。
俺は、彼女の手を強く握り返した。
「……ずっと、憧れていました」囁くように言うと、沙耶さんの唇がわずかに震えた。
「圭吾くん……」ゆっくりと、距離が縮まる。
そして、俺たちは静かに唇を重ねた。長年の想いが、ようやく届いた瞬間だった。時間がゆっくりと流れていた。
いつしか、俺たちは互いの存在を確かめるように、静かに寄り添っていた。
「……こんなこと、しちゃダメよね」沙耶さんは、そう言いながらも、俺の手を離さない。
「後悔しますか?」
「……わからないわ。でも、今は……」彼女の指先が、俺の髪をそっと撫でる。
「今は、後悔したくない……」俺は、彼女を強く抱きしめた。
朝日が薄暗いカーテンの隙間から差し込んでいた。目を覚ますと、隣には沙耶さんがいた。彼女は静かに眠っている。
俺は、昨夜のことを思い出しながら、そっと彼女の髪を撫でた。
「……沙耶さん」すると、彼女がゆっくりと目を開けた。
「おはよう、圭吾くん」微笑む彼女の表情は、どこか穏やかだった。
「もう、子供じゃないわね……」
「……沙耶さん」俺は、彼女の手を握りしめた。
「また、会えますか?」少しの沈黙のあと、沙耶さんは微笑んだ。
「さぁ、どうかしら……?」けれど、彼女の指がそっと俺の袖を掴んだ。その温もりが、答えだった。
外では、昨夜の雨の名残が、窓ガラスを静かに濡らしていた——。
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