
「ねえ、私たち……最初から間違ってたのかな?」彼女はそう言って、ふと寂しそうに笑った。リビングの隅で、冷めかけた紅茶の湯気が、静かに揺れていた。彼女の名前は美咲。妻の絵美の高校時代からの親友で、我が家には何度も遊びに来ていた。
明るくて、よく笑って、誰からも好かれる存在だった。もちろん俺も彼女のことを良い子だと思っていた。ただそれは人間として…だ。
しかしある時を境に、俺たちの関係は、普通じゃなくなっていった。妻が留守の土曜日、何気ない雑談。視線がふと重なった瞬間。
まるでスイッチが入ったように、何かが動き始めた。最初はただの勘違いだと思っていた。でも、その“勘違い”は、日に日に輪郭を濃くしていった。
「絵美が羨ましいな。……こんなに優しい旦那さんで。私も翼さんみたいな人と早く会いたかったな…」
「美咲ちゃん、それって…」
「あ、ごめん。冗談、だよ?」冗談じゃなかった。触れてはいけないと分かっていた。妻の親友に、心を動かされてはいけないと。
でも、俺の心は、もう戻れなかった。これは、俺が絵美の親友である美咲と本気の恋に堕ちた話だ。決して触れてはいけない、そして何より越えてはならなかった線なのに…
数週間前。本当に偶然だった。
「かなり久しぶりね、翼さん。」そう言って美咲が微笑んだ。
細身のワインレッドのワンピースが、彼女のしなやかな体を美しく引き立てていた。
「本当にそうだな。会うのは何年ぶりかな?」
「5年くらい? 絵美と結婚してから、ちゃんと話す機会なんてなかったし。」
確かに、美咲とこうして向き合って話すのは久しぶりだった。妻の絵美とは高校からの親友で、ずっと仲がいい。
俺も結婚前、何度か彼女と会う機会があった。その頃の美咲は、今とは少し違っていた。
「離婚したって聞いたけど……大変だったろ?大丈夫か?」
「うん、まああの時は大変だったけど…今はもう大丈夫。」美咲は笑った。どこか寂しそうで、それでいて強がるような笑顔だった。
この日、美咲が家に来たのは久しぶりだった。絵美が「たまにはゆっくり話したい」と言って、美咲を夕食に招いたのだ。
リビングのテーブルには、絵美が張り切って作った料理が並ぶ。 美咲はワインを片手に、楽しそうに絵美と話していた。
「ねえ、覚えてる? 絵美、学生の頃から翼さんのこと好きだったのよ。」
「おいおい、急に何の話だよ。」俺が苦笑すると、美咲はくすくすと笑った。
「だって本当なんだもん。ね? 絵美。」
「もう、美咲! 余計なこと言わないでよ!」俺達は皆高校が同じだった。だが学生時代に好意を寄せていたなんて初めて聞いた。
妻は頬を染めながら、軽く美咲の肩を叩く。そんな二人のやりとりを見ながら、俺はどこか懐かしい気持ちになっていた。
あの頃と変わらない、仲のいい親友同士。でもそこにいる美咲は、俺の記憶の中の彼女とはどこか違って見えた。
以前は、どこか姉御肌で、絵美のことをいつも気にかける“お姉さん”のような存在だった。
だが、今の美咲は、どこか儚げで、そして……女としての色気を纏っていた。むしろ離婚したことにより、それが増したように思う。
そんなことを思って見ていると、美咲が声を掛ける。
「翼さん、お酒もう一杯どう?」
「あ、ああ、ありがとう。」美咲がワインを注ぐ。その指先が、グラスの縁をなぞるように滑った。
ふと目が合う。すると彼女は小声で俺に
「翼さんどうしたの?」
「え?」
「さっきから私のこと…チラチラ見てるけど何か付いてる?」
「い、いやそんなことないよ。久しぶりに会ったからつい見ちゃって」
「それって私が綺麗ってことか~もう翼さんったら、絵美がいるのに他の女なんか見たら駄目でしょ?」
「だ、だからそんなんじゃないって」至近距離での会話に俺はドキドキしてしまった。美咲ってこんな雰囲気だったか…?
一瞬、何かが胸の奥でざわついた。だが、俺はすぐにその感覚を振り払った。これは、単なる再会の場だ。
それ以上の意味なんて、あるはずがない。そう、自分に言い聞かせながらも、なぜか美咲の仕草が妙に気になって仕方なかった。
それから美咲が家に来る機会は、その日を境に少しずつ増えていった。絵美とは相変わらず仲がよく、我が家にふらっと立ち寄っては、雑談をし、笑い合っていた。だが、いつからだったか。美咲の視線が、俺にだけ静かに絡むようになったのは。
それは、絵美が夜勤の日だった。美咲がワインと料理を持って家にやってきた。
「え?いないの?」帰ろうとする美咲を俺は呼び止め、罪悪感もあったがせっかくだし上がってってよと家にあげた。
「翼さんってさ、昔から変わらないよね。」
「そうか?もういい歳だよ。見た目も気力も、だいぶ落ちた。」
「ううん。変わってない。落ち着いてて、優しくて……安心できる。」その言葉が、妙に胸に引っかかった。
そして、ふとした瞬間彼女の頭が俺の肩にもたれ掛かった。
「み、美咲…?どうした?」
「……ねぇ、絵美のこと、今でもちゃんと愛してる?」唐突な問いだった。
「どうしてそんなこと聞くんだ?」
「ううん、ただ……なんとなく。最近の絵美、ちょっと寂しそうだったから。」
「そ、そうか。」否定も肯定もできなかった。
日々の忙しさにかまけて、絵美とちゃんと向き合えていなかったのは事実だった。
「ごめん、変なこと聞いて。今のこと忘れて?」そう言いながら、美咲は俺の隣に座り直した。 少し近い…いや、“明らかに”近すぎる距離だった。
「私も……本当は、寂しいんだよ。」ぽつりと漏れたその言葉に、俺の心がわずかにざわつく。
「離婚してから、誰かに“女”として見られることなんて、なくてさ。」
「美咲。」彼女の視線が、静かに俺を捉える。逃げることも、逸らすこともできなかった。
「翼さんは……もしも私が、もっと早くあなたに出会ってたら、どうしてた?」それは、ありえない“もしも”の話。
けれど、その“もしも”に、俺の心は妙に引き込まれてしまっていた。
「そんなこと、考えたって……」
「だよね、うん……ごめん。」美咲はそう言いながら、少しだけ肩を寄せた。 髪が俺の腕に触れた瞬間、全身に電流のようなものが走る。
「……今だけ、こうしてちゃダメかな。」
「どうしたんだよ?いつもの美咲らしくないぞ?」
「私だって…まだ女でいたいんだよ…?」その声は震えていた。求めているのに、拒まれることを恐れている、そんな震えだった。
この関係は間違っている。頭ではそう分かっていた。でももう理性が外れかけていたんだ。俺は美咲に向き直る。
「さっきのもしもの話だけど…今から試してみたいんだけど…いいかな?」
「えっ?どういう…」話の途中ではあったが、俺は彼女の唇を奪うことでその答えを示した。
目を見開き驚く美咲だったが、やがて俺のことを受け入れてくれた。いや今にして思えば美咲もこうなることを待っていたのだと思う。
「ねぇ…ここまできて今更確認なんだけど、絵美のことはどう思ってるの?」
「どういうこと?」
「絵美に愛情があるなら私とのこと…罪悪感生まれない?」その問いかけには胸が少しチクっとする感覚になった。
ただ絵美との関係は少し前からあまりうまくいっていない。親戚や美咲などの友人たちの前では、それなりの関係を見せるものの二人きりになってなにかすることなどまったくない。それどころか会話なんて最近挨拶くらいしかいなかった。
夫婦生活がこんなものだと言ってしまえばそうかもしれないが、俺はその関係に渇いていたかもしれない。
そんな時美咲のような魅力的な女性が現れた。だから心を奪われてしまったんだと思う。
「美咲…今の俺は美咲しか見えていない…」
「わかった…今晩だけ…ね」俺達はこの日、越えてはいけない一線を越えてしまった…
その後目を覚ましたのは、朝の光がカーテン越しに差し込む頃だった。隣で静かに眠る美咲の寝顔を見て、俺の胸が締めつけられる。
昨夜の熱がまだ残っているのに、同時にちょっとした罪悪感も生まれた。やってしまった…
覚悟はしたものの、やはり冷静になってみると普通ではいられない。
ふと、美咲がゆっくりと瞼を開けた。
「……おはよう。」
「……美咲。」俺は何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。
「ねぇ…私たち、やっぱり間違ってたのかな?」それは、昨日の夜、彼女が言った言葉と同じだった。けれど、その問いかけの意味はもう違っていた。俺たちはただの“友達”には戻れない。この先、どんな顔で絵美に会えばいいのか。それでも、俺の中で何かが変わってしまっていた。俺は、美咲の頬にそっと触れた。
「昨日の夜のこと…後悔してる?」そう聞くと、美咲は静かに首を振った。
「後悔なんて、しないよ。」美咲の指が、俺の手を優しく握りしめる。
「だって……私は、ずっと好きだったんだから。」
「え?」
「私、いつもダメだよね…親友と同じ人を好きになったからって譲っちゃったの。
だから自分の中で諦めたつもりだったのに、再会したら当時のことを思い出してしまって…」その言葉を聞いた瞬間、俺の中の何かが決定的に壊れた。“間違い”だったはずの関係が、もう“間違い”ではなくなっていた。もう、戻れない。いや、戻るつもりもなかった。
日曜の朝。曇り空の下、リビングにはどこか沈んだ空気が漂っていた。
先日、美咲と過ごした時間が、まるで夢のように感じる。だが現実は容赦なく、俺の良心を刺し続けていた。
「絵美、今日は仕事?」
「うん。今日は遅くなるかも。冷蔵庫にカレー入れてあるから、温めて食べてね」
そう言って絵美は笑った。その笑顔に、俺は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
何をやっているんだ、俺は。 妻を裏切り、しかもその相手は彼女の親友。どれだけの罪を背負ったら気が済むんだ。
その時、スマホにメッセージが届いた。美咲からだった。
「少しだけ会えない? ちゃんと話したいの」俺は迷った。だが、答えを出さなければいけないと思った。
指定されたカフェへ入ると既に美咲は待っていた。昨夜とは打って変わって、淡いグレーのカーディガンに身を包んでいた。表情はどこか硬い。
「来てくれて、ありがとう」
「……俺の方こそ。昨日のこと、ちゃんと話さなきゃいけないと思ってた」しばらく、互いに無言だった。
通り過ぎる車の音と、遠くで笑う子供の声だけが、時間を進めていた。
「昨日のこと、後悔してる?」そう訊いたのは、美咲だった。 だがその声は、どこか震えていた。
「……後悔してる。でも、それは“したこと”じゃない。美咲を、こんな形で苦しめてることに、だ」
「え?」
「そんなことを聞いてくるってことは美咲自身、罪悪感があるんだろう?」美咲にそう言うと彼女はフッと笑い、何もかもお見通しねと言って話し始めた。
「私ね、ずっと羨ましかったの。絵美とあなたが、一緒に幸せそうにしてるのを見て……自分はどこで間違ったんだろうって」
「美咲…」
「でもね、昨日、あなたの腕の中にいたとき、やっとわかったの。私は、ずっと“誰かに選ばれたかった”んだって。女として、ひとりの人間として」俺は黙って頷いた。 美咲の言葉が、痛いほど胸に刺さった。
「だけど……これは絵美に対する裏切りだよね。親友として、最低なことをしたって分かってる」
「俺だって同じだよ。でも……気持ちだけは、嘘じゃなかった」そう言った瞬間、彼女の瞳から涙が一粒こぼれた。
「翼さん…私はもう、戻れない。あなたを好きになったことを、消せない」
「なら…一緒に、責任を取ろう」
「え…?」
「絵美に、すべて話そう。そして…俺は、美咲と生きる道を選びたい」美咲は言葉を失っていた。だがその頬には、涙が静かに流れていた。
「私、恨まれるよね…」
「それはおれも一緒だよ。」帰宅した絵美の前で、俺はすべてを打ち明けた。どんなに取り繕っても、この嘘は長く続かない。ならば、自分の言葉で、終わらせようと思った。絵美は黙って俺の話を聞いた。時折、視線を落としながら、何度も唇を噛み締めていた。
「……本気なの?」
「美咲と一緒にいたい。勝手なのは分かってる。でも、嘘ついたまま過ごせない」長い沈黙のあと、絵美はぽつりと呟いた。
「……美咲、昔から男を見る目なかったからね。今回もまた、私の大切なものを持って行くのね」その言葉は、静かで、それでいて鋭かった。だがその目に、涙はなかった。ただ、どこか覚悟を決めたような強さがあった。
「絵美…本当にごめん」
「……許すことは無いわよ。翼がそう決めたなら、それが一番なんでしょ。でも最低だから…!」
絵美はそう言って俺を睨みつけた。俺は彼女の目をまっすぐに見れなかった。そして絵美はそのまま寝室へ入っていった。
その背中は、どこか小さく、寂しそうに見えた。恵美を傷つけてまで俺は、美咲と共に生きる道を選んだ。
誰かを傷つけることでしか手に入れられなかった未来。だけど、これから先、決してその選択を無駄にはしないと、心に誓った。
これは、許されない関係だったことはわかっている。でももう絵美以上に愛したい女性が現れたんだから…
絵美との結婚生活を続けることは考えられなかった…。
そしてあれから半年が経った。
俺は今、美咲と一緒に新しく借りたアパートの窓辺に座っている。
あの日、すべてを絵美に話してから、人生は大きく変わった。もちろん、楽な道ではなかった。仕事も失った。
絵美との離婚は円満とは程遠く、話し合いは何度も平行線を辿った。
けれど、最終的には「もう一度、嘘のない人生を歩んでほしい」という彼女の最後の言葉に救われた。
その日、彼女の背中が見えなくなるまで、俺はその場から動けなかった。
今でも時折、夢に見る。あのまっすぐで、優しかった絵美の瞳を。
「……ねぇ、聞いてる?」現実に引き戻したのは、美咲の声だった。
キッチンからエプロン姿でこちらを覗き込む彼女が、小さく微笑む。
「え、ああ。悪い、ちょっとぼーっとしてた」
「まったくもう。せっかくカレー煮込んでるのに、焦げたらどうするのよ?」
「はは、ごめんごめん。でも……美咲のカレーなら、多少焦げてても食べるけどな」
「なにそれ、フォローになってないし!」そう言って、美咲は笑った。
あの頃のようにどこか強がっていた笑顔じゃない。
心から、安心している笑顔だった。俺たちは今、小さな部屋で静かに暮らしている。
贅沢はない。人目を忍ぶような生活が続いた時期もあった。
それでもこの日々は、紛れもなく“選び取った未来”だ。
「ねえ、翼さん」
「ん?」
「私ね、あの時翼さんに会えて、本当に良かったと思ってる」
「……俺もだよ。後悔はしてない」
「たとえどんなに責められても?」
「全部、受け止める。美咲を守るって決めたから」
その言葉に、美咲は静かに頷いた。
離婚したことでたくさんのものを失った。信頼も、友情も、そして一つの家族もすべて、失った。
けれどその代わりに、俺たちは“本当の気持ち”に辿り着いた。
誰に何を言われようと、これは俺たちの人生だ。
誰かのためではなく、自分たちのために選んだ道。
その先にある景色は、決して間違いじゃないという生き方をしていかなければならない。
俺と美咲ならきっと…