美香の笑顔が消えたのは、いつからだっただろうか。陽介はリビングで一人、冷めたコーヒーを見つめていた。テレビ台に置かれた結婚式の写真が、過去の幸せを嘲笑うように映る。隣の部屋から微かに響くスマートフォンの通知音が、何か大切なものが壊れていく音に聞こえた。
陽介と妻の美香は、同じ会社の同僚で、結婚をしてから会社の社宅で暮らしていた。陽介の後輩である佐藤進も同じ社宅に住んでおり、進の妻、由美とも何度も顔を合わせる仲だった。進は陽介にとって頼れる後輩であり、明るく親しみやすい性格から社内でも人気者だった。しかし、進には陽介が知らないもう一つの顔があった。
美香の様子が変わったのは数ヶ月前からだった。夜遅くまで帰ってこず、スマートフォンをいじる時間が増え、陽介が話しかけても「疲れてる」と素っ気なく返されるばかり。夫婦の会話は減り、日々の生活に静かな亀裂が入っていくのを感じた。陽介はその理由を問い詰めることもできず、何も言えないまま過ごしていた。
その夜も、美香は夜遅く帰ってきて、すぐにお風呂に入っていった。不安が膨らむ中、陽介は衝動的に美香のスマートフォンを手に取った。普段はそんなことをする自分ではなかったが、画面を確認するとなんと進とのメッセージのやり取りが浮かんでいた。表向きは仕事の話が多かったが、その合間に挟まれる軽妙なやり取りと、親しげなスタンプの数々が、二人の親密さを物語っていた。だが、メッセージを遡っていくと、美香は初め嫌がっているようだった。美香の弱みを脅すかのような文章から始まり、そして強引に寝取られ、そして徐々に進に心酔していっているのが分かるようなメッセージだった。
陽介の胸に冷たい衝撃が走る。目の前の画面に映るのは、篭絡されたとはいえ妻が他の男に心を許している証拠。しかも、その男は信頼していた後輩の進だった。心が締め付けられるような感覚に、陽介は深いショックを受けた。仕事でも信頼し、友人としても尊敬していた進に裏切られたという事実が、耐え難いほど重くのしかかってきた。
「どうして…」
声も出せず、陽介はただスマホを握り締めて震えていた。目の前の現実が、一瞬で崩れ去っていく。美香が風呂から上がってくると、陽介は何事もなかったように振る舞った。だが、心の中ではもう限界だった。誰かにこの気持ちを伝えたい、でもそれを誰に話せばいいのかも分からない。そんな陽介の心の内を知る術もなく、美香は疲れた顔をして寝室に消えていった。
翌日、陽介は決心し、進の奥さん由美に会いに行くことにした。由美もまた、進のことを知るべきだと思ったのだ。ドアをノックすると、由美は少し驚いた様子で現れた。部屋に通され、コーヒーを飲みながら、陽介は勇気を振り絞って話し始めた。
「実は…美香と進が…」
陽介の言葉が喉に詰まる。由美の顔色が変わり、目には薄く涙が滲んでいる。しばらく黙り込んだ後、由美は静かに話し始めた。
「陽介さんもようやく知ったのですね…」彼女の声は掠れて、今にも崩れそうだった。進は表向きは優しく、気さくな夫を演じているが、家では全くの別人だという。少しでも気に入らないことがあれば、容赦なく暴力を振るい、由美はずっと恐怖に怯えながら暮らしていた。外では笑顔で人当たりが良い進の姿と、家での残虐な本性のギャップに、由美はずっと苦しんでいた。離れたくて誰かに言いたくても恐怖がそれを許さず、誰にも相談できないまま、ただ耐え続けていたという。
「本当に辛くて、怖くて、どうしようもなかったんです。誰にも言えなくて…」
由美の震える声を聞いた陽介は、胸が張り裂けそうだった。進がそんな男だとは思いもしなかった。由美の傷ついた心に寄り添いたいという思いが溢れ、陽介は彼女に提案した。
「進のこと、絶対に許しちゃ駄目です。だから、正式に証拠を集めましょう。進の暴力も、美香との不倫も全部…二人がしたことを、世間に知らしめてやりましょう。」
由美は涙を拭い、決意を固めたように頷いた。二人は協力して証拠を集めることにした。進が由美に暴力を振るう瞬間を録音し、不倫の証拠も押さえていった。由美は隠しカメラをセットし、進の荒々しい怒鳴り声を必死で録音していた。彼が手を振り上げるたびに、心臓が張り裂けそうになり、息を殺して耐えた。録音ボタンを押す指がかすかに震え、由美は目を閉じて祈るように、もう一度進に背を向けた。
美香と進の密会を目撃するたびに、陽介の心は崩れそうになったが、由美のためにと耐え続けた。進の暴力は容赦がなく、由美が傷つくたびに陽介の怒りも増していった。二人は、お互いの傷を見せ合うことで支え合っていた。
そして、ついに決行の日が来た。由美は母親の介護を理由に実家に戻ると進に伝え、陽介も出張だとうそをついた。二人がいないと知って、案の定、美香は進の家へ向かった。その日の夜、陽介と由美、そして美香と由美の両親を連れて、進の家に突入した。玄関のドアを開けると、二人の驚いた表情が目に飛び込んできた。ベッドの中で見つかった二人は、何も言えず、ただうろたえるばかりだった。
「何やってるの!」進の母が叫び、空気を切り裂いた。美香は青ざめ、進は言葉を失ったまま固まる。陽介は、冷たく突き刺すような視線で二人を見つめた。彼らをリビングへ呼び、今までのすべての証拠をテレビで流した。進の暴力の音が部屋に響き渡り、両親たちの顔は次第に蒼白になっていく。由美の涙は止まらず、陽介もまた、何かが崩れ落ちるのを感じていた。何も言えない二人を前に、陽介と由美はこれまでの痛みをぶつけるように、一つ一つの証拠を突きつけた。
「こんなことをして恥ずかしくないんか?」
「私は悪くない。進に脅されたの!」
と美香が必死に言い訳をする。
「脅されたら、寝るのか?」その言葉を境に美香は涙し何も言い返さなかった。
陽介は冷静に、不倫の証拠を全て見せた。美香も進も、もう何も言い逃れできなかった。両親の前で陽介と由美はそれぞれ離婚を突きつけ、慰謝料の支払いを求めた。陽介は進と妻にそれぞれ300万円、計600万円を、由美は進に500万円、美香に300万円を要求した。
もちろん、こんな大金払える訳がない。警察にも会社にも報告しない代わりに、不足分はご両親から払ってもらうことにした。
進と美香の両親は顔を伏せ、やむを得ず支払うことに同意した。会社には知らせずにはいたが、進と美香は結局依願退職を決意し、社宅からも出ていくことになった。
妻は家を出ていく日、何か言いたそうな目をしていたが、「これで進と別れられて良かっただろう?」と言うと、「そうね……」と謝って出て行った。少し可哀そうだという感情もあったが、進と別れるきっかけが出来てよかったと思う。
すべてが終わり、陽介と由美は静かなカフェで二人だけの時間を過ごしていた。報告という名の打ち上げだったが、二人の心にはまだいろいろな思いが渦巻いていた。由美は涙を浮かべながら微笑み、陽介もその笑顔に救われる気がした。
「本当に、ありがとう。陽介さんがいなかったら、私はきっと今でも進に怯えていました。」
「俺も、由美さんがいてくれたからここまでできたんです。あなたの強さに支えられました。」
陽介は微笑んだが、その瞳にはまだ拭えない痛みが残っている。由美も静かに微笑み返した。「きっと、大丈夫ですよ。私たちはもう、前に進んでいるんですから。」二人は穏やかな視線を交わしながら、グラスを合わせた。お互いに深い傷を負いながらも、こうして立ち直ることができたのは互いの存在があったからこそだった。新しい未来がどうなるのかはまだ分からないが、今この瞬間だけは心からの感謝と、安らぎを感じていた。