私の名前は平田菊雄、65歳。年金暮らしに入り、気ままに過ごしている……と、世間的にはそう思われるかもしれないが、実際のところ、家にいる時間は心休まらない。数年前から、息子の栄治と、その妻・加奈と一緒に暮らしているからだ。まさか自分の息子夫婦と同居することになるとは思いもよらなかった。けれど、そうせざるを得なかった事情がある。
栄治と加奈の間には、かつてひとり息子がいた。私にとっても初孫であり、可愛い可愛い男の子だった。あの子が家の中をちょこちょこと歩き回るだけで、家中が明るくなり、私も加奈も、もちろん栄治も、それはそれは幸せだった。しかし、ある年の秋、ほんの一瞬の不注意から起きた事故で、あの子はこの世からいなくなってしまった。
それ以来、栄治と加奈の関係はどこかぎこちなくなり、夫婦の間には深い溝が生まれてしまった。栄治はまるで現実から逃げるように仕事に打ち込み始め、家にいる時間がどんどん短くなっていった。そして、そのうち栄治はよそに女でも作っているのだろう。男の私でもわかる行動をしている。どうしようもないほどの悲しみから逃れたいのはわかる。けれど、栄治の行動には、それでも言い訳のしようがない。
加奈もそのことに気づいているのだろう。気づきながらも、彼女は何も言わず、ただ黙々と家事をこなす日々。まるでロボットのように、無表情で料理を作り、掃除をして、洗濯物をたたむ。あの優しく微笑む姿を見たのは、いったいどれくらい前だっただろうか。そんな彼女の姿を、ただ傍観するしかない自分が情けなかった。けれど、どう声をかければいいのかもわからない。ただただ、自分の無力さが恥ずかしかった。
そんなある日のことだった。夕食の支度をしていた彼女が、ふと手元が狂って、包丁で手を切ってしまったのだ。彼女は血が滴り落ちる手を見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。私は「大丈夫か?」と声をかけると、加奈はまるで何も感じていないような表情で私を見た。
「平気です……すぐ治りますから」と小さな声で言ったが、その震える声が妙に耳に残った。私は「そんなわけあるか」と、そっと彼女の手にティッシュを当て、救急箱を探しにいった。台所に戻り、傷口を見つめながら、そっとガーゼを当てて包帯を巻いていると、突然、彼女の肩が小さく震え始めたのだ。
加奈は口を押さえるようにして、「ごめんなさい、ごめんなさい……」と呟くと、堰を切ったように泣き出した。その涙は、まるで押し留めていたダムが決壊したかのように止めどなく溢れ、彼女の頬を流れ落ちていく。私はただただ戸惑い、どうしたらいいのかわからず、彼女の肩にそっと手を置いた。
「加奈ちゃん……辛かったら泣いたらいいんだ…」
自分の声が、驚くほど穏やかだったことに気づく。加奈は「ごめんなさい……もう……もう限界なんです」と言いながら、私の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。あの小さな体が震え、彼女がこれまでどれだけ一人で耐えてきたのかが、痛いほど伝わってきた。
その時だった。私はふと、加奈がただの「息子の嫁」である以上に、ひとりの人間としての存在が心に深く刻まれていくのを感じた。彼女は、この家で私と同じように、いや、もしかしたら私以上に、寂しさを抱えながら暮らしているのだと。
その日の夜、私と加奈は衝動的に一つになってしまった。ただただ寂しさを紛らわす為だけだったかもしれない。
ただ、それ以来、加奈は少しずつ、私に心を開いてくれるようになった。最初は小さな会話の断片から始まり、それが徐々に日常の中のささやかなやりとりに広がっていった。栄治が家を空けることが多くなり、家の中には私と加奈の二人きりになることも増えていった。
ある日、加奈が食卓でぽつりと「お父さん、私とこうして話すの、楽しいですか?」と茶目っ気を見せて聞いてきたことがあった。私は照れくさくなって、「そりゃ加奈ちゃんがいると楽しいよ」と返すしかなかったが、その時の加奈の微笑みが、ほんの一瞬、昔の柔らかな彼女に戻ったように見えた。
それからは、栄治がいないとき、加奈がふとした拍子に私の手をそっと握ってくることがあった。それは決して恋愛感情ではなく、ただただ、お互いの孤独を埋め合うような、静かで温かい瞬間だった。彼女にとっても、私にとっても、言葉にできないような、支え合うためのひとときだった。
ある晩、加奈がぽつりとこう言った。「お義父さん、あの人が戻ってくるまでお義父さんのそばにずっといてもいいですか?」と。
私はその言葉に一瞬、複雑な思いを抱いた。息子としての栄治のことも頭をよぎる。けれど、この傷だらけの女性が、今目の前で私を見つめている。彼女のその瞳に浮かぶものを無視することは、私にはできなかった。
「ああ。ずっといても良いんだよ。辛い時はいつでも頼ってくれ。加奈ちゃんは一人じゃないんだよ」
その言葉に、加奈はまた涙ぐんだ。そして静かに頷くその姿は、どこかほっとしているように見えた。
加奈と私の関係は、栄治にバレることなく続いている。この関係がいつ終わるのか、それとも終わらないのか、正直なところ私にも分からない。もしかしたら、私自身も加奈を手放すことに抵抗を感じているのかもしれない。だけど、私たちのこの関係が、息子である栄治が家庭を顧みるきっかけになれば、それでいいと自分に言い聞かせている。
「お父さん、こうしていて嬉しいでしょ?」と、加奈は悪びれる様子もなく微笑む。その笑顔を見ていると、私も少しばかり照れくさくなり、曖昧に頷くしかできない。
この先どうなるか分からないが、今はただ、加奈と過ごすこのひとときを大切にしていこうと思う。
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