
一年前、俺の人生は突然終わったようなものだった。
朝、何気なく見送った妻が、そのまま帰ってこなかったのだ。何の前触れもなく倒れ、病院に運ばれたと聞いたときも、俺はどこか他人事のようにしか受け止められなかった。まさか、あの明るい笑顔が、あの声が、もう二度と聞けなくなるなんて。信じられるわけがなかった。
病室に駆けつけたとき、妻はすでに息を引き取っていた。妻の顔はまるで眠っているみたいだった。いつもより少し静かで、穏やかで、でも…触れてみたその頬は冷たくて、ああ、もう戻ってこないんだって、ようやくそのとき思い知らされた。
それからのことは、あまりよく覚えていない。葬儀も、弔問も、手続きも、全部誰かが代わりにやってくれた。俺はただ、言われた通りに立ち、言われた通りに頭を下げ、言葉をかけられても、うまく返せなかった。
帰ってきた家には、妻の匂いがまだ残っていた。洗面所のタオルも、脱ぎっぱなしのパジャマも、どれもが「日常」の中にあって、そこに彼女がもういないことだけが異物だった。
リビングに入ると、いつもなら「おかえり」と笑ってくれるはずの人がいない。ただ、照明の下で椅子がぽつんと揺れているのが、なぜか妙に寂しく感じられた。食卓の向こうに、あの笑顔がない。箸を持つ手が、空振りする。口を開こうとしても、声にならない。
まるで、生きているのに、生きていないみたいだった。
会社には行っていた。行かなくてはならなかった。でも、ただ机に向かい、画面を見つめ、定時になったら家に帰る。それだけだった。仕事の内容なんて、何一つ覚えていない。友人たちは心配して連絡をくれたが、誰にも返す気力が湧かなかった。LINEの通知が鳴るたびに、妻のスマホを思い出してしまって、ひどく気持ちが沈んだ。そんな中で、唯一変わらず接してくれたのが、義母だった。妻の母親であり、俺にとっては“家族の延長線上”にいる人。
彼女は、あの葬儀の翌日から、何の遠慮もなく俺の家を訪ねてくるようになった。
最初のうちは正直、ありがた迷惑だった。誰とも話したくなかったし、下手に優しくされると、すぐに涙が溢れてしまってきたからだ。
でも、義母はそういう空気をものともせず、玄関のチャイムを押しては、笑顔で小さな紙袋を差し出してきた。煮物だったり、おにぎりだったり、近所で買った総菜だったり。それを渡しては「無理しないでね」とだけ言って、帰っていった。
ある日、玄関を開けると、義母がまっすぐこちらを見つめてきた。「今日は少し、上がらせてもらっても良い?」その声に、俺はなんだか抗えなくなって、「どうぞ」と小さく返してしまった。
リビングに座った義母は、てきぱきをお茶を入れてくれた。普段からよくうちには来ていたから当たり前の動作なんだろう。
「無理しすぎてない?少し休んだっていいのよ?」
そう言って、俺の肩にそっと手を添えたとき、その手の温かさに、思わず目を閉じた。妻の手とは違う。けれど、不思議と胸に沁みた。
義母は、見た目にも若々しい人だった。妻がかなり年下だったこともあって、そこまで俺と年も離れていない。もともと綺麗な人で、妻とも姉妹と間違われたりすることもあったくらいだ。
俺にとってはもちろん「お義母さん」と呼んでいた存在だ。そんな人を、女として見るなんてこと、あるわけがない。そう思っていた。
なのに──どうしてか、その日から、彼女が来るのを待つようになってしまった。
妻が亡くなってから義母は日を空けずに通ってきた。話すことは他愛ないことばかりだ。天気のこと、買い物のこと、近所の誰それがどうしたとか。
それを俺はただ、聞いているだけだった。でも、話が終わる頃には、なぜか少しだけ楽になっている自分がいた。
ある日、義母が作ってきてくれたのは、俺の大好物だったグラタンだった。
「冷めないうちに、食べてね」笑顔でそう言われ、リビングでひと口食べた瞬間、込み上げるものがあった。
懐かしくて、優しくて、どこか妻の面影を思い出させる味だった。けれど、それは明らかに、妻のものとは違う。義母の味だった。
気づけば、涙が頬をつたっていた。
「……美味しいです。ほんとに」震える声でそう言うと、義母は少し驚いたような顔をして、でもすぐに、そっと笑った。
「そう言ってくれて、よかったわ」その言葉が、胸に響いた。
このとき、俺の中で何かが変わり始めていたんだと思う。妻を失って、空っぽになっていた心のどこかが、少しずつ埋められていくような感覚。そして、それを埋めているのが、義母だという事実に、俺はまだ気づかないふりをしていた。
義母との距離は、季節の移ろいとともに少しずつ近づいていった。最初は週に数回だった訪問が、気づけばほぼ毎日のようになっていた。何かのついでに立ち寄ったような顔をしながら、買い物袋を片手にキッチンに立ち、あれこれ手際よく並べてくれる。
彼女が帰ったあとの静けさは、かつて感じていたものとは少し違った。寂しさよりも、ほんの少しだけ、名残惜しさのようなものが残っていた。
「今日は何をしたの?」義母はいつも、そんなふうに問いかけてきた。
特別なことをしていなくても、その一言が嬉しかった。誰かに気にかけられているというだけで、少し呼吸が楽になる気がした。
帰宅すると部屋が暖かい。それだけで心が落ち着く。人のいる気配、誰かが用意してくれた食卓。
ああ、これが“生活”なんだなと、少しずつ思えるようになっていた。
もちろん、最初のうちは義母の厚意にただ甘えているだけだと自分でも思っていた。ありがたいと思いながらも、それ以上の感情は自分の中に存在しないと、そう思い込もうとしていた。でも、ある日ふと、彼女の声が他の誰よりも耳に心地よく感じることに気づいた。
笑った彼女の顔を見て、自分まで頬がゆるむ。エプロンの紐を結んだ体のシルエット姿が、妙に目に残る。
夜、布団に入ってからも、彼女の笑顔や動きがふと浮かんでくる。そしてそのたびに、胸の奥がくすぐったいような、でもどこか苦しいような気持ちになる。
ある夜、仕事で遅くなって帰宅すると、キッチンから包丁の音が聞こえた。灯りは柔らかく、カーテンが少しだけ風に揺れていた。
「あ、おかえり。今日はちょっと豪華にしてみたの」義母はそう言って振り向いた。エプロン姿で、髪を後ろで軽く結っている。その笑顔が、どうしようもなく眩しく見えた。
テーブルの上には、煮込みハンバーグ、ポテトグラタン、サラダ、スープ。どれも丁寧に作られていて、湯気が立ちのぼっている。
「すごい……こんなに作ってくれたんですか」
「昨日なんだか疲れてるように見えたから」そう言って微笑むその表情に、俺はまた、胸が締めつけられるような気持ちになった。
食事をしながら、他愛ない話を続ける。職場でのこと、ニュースで見た話題、近所の噂。でも、話の内容なんてどうでもよかった。
彼女が目の前にいて、微笑んでくれていることが、ただ嬉しかった。
「本当に、いつもありがとうございます」そう言うと、義母は少しだけうつむき、照れたように笑った。
「私も嬉しいからいいのよ」その言葉に、何かが心の奥に落ちた気がした。妻とは違う。だけど、どこか似ているところもある。
いや、違うからこそ、惹かれているのかもしれない。気づきたくなかった。でも、たしかに、俺の中で彼女への気持ちが育っていた。
「……お義母さん」と呼びかけようとして、やめた。その呼び方すら、どこかよそよそしく感じ始めていた自分に気づいて、少しだけ戸惑った。
それからの日々、俺は彼女のひとつひとつの仕草を気にするようになった。湯飲みを差し出すときの指先。笑うときに口元を隠す手。
しゃがんだとき、背中越しに見えるうなじ。どれもこれも、今まで見過ごしていたものなのに、急に色を持ち始めたようだった。
でも、その一方で、自分の中に芽生えた感情を否定したくなる自分もいた。彼女は義母であり、亡くなった妻の母親である。
そう簡単に踏み越えてはいけない一線が、そこにはある。
それでも、日々が過ぎていくたびに、その境界線は曖昧になっていった。
「今日は寒いわね」と肩をすぼめる姿に、「寒くないですか?」と手を伸ばしたくなる。
「ちょっと腰が痛くてね」と言う彼女に、「マッサージしましょうか」と言いかけて、飲み込んだ。
気づけば、心のどこかで彼女の存在を「支え」ではなく「女性」として見てしまっていた。それがどれだけ愚かなことか、自分でもわかっている。でも、その感情は、もう戻れないところまで来ていた。
ある夜、布団に入ってもなかなか眠れず、目を閉じると彼女の笑顔が浮かんだ。何でもない日常の中で交わされた言葉や仕草が、まるでスローモーションのように頭を巡る。どこでどうして、こんなふうになってしまったのか。
でも、もう止められない。自分でももうわかっていた。
その日は、朝からなんとなく落ち着かない気分だった。天気は晴れ。風も穏やかで、春の始まりを感じさせるような、そんな一日だった。だけど、胸の奥には小さなざわつきがあって、理由もないまま何度も時計を見ていた。
仕事を終えてスマホを確認すると、義母からメッセージが届いていた。
「今日は楽しみにしててね」絵文字もなく、短い文章だったのに、なぜか心が跳ねた。
“楽しみにしててね”――たったそれだけなのに、何を期待しているんだろうと、自分で自分がわからなかった。
少し早足で帰路を辿り、玄関を開けると、ふわりと香ばしい香りが鼻をくすぐった。
リビングのドアを開けると、そこはいつもと違う空気に包まれていた。
灯りが少し落とされ、テーブルの中央には小さなキャンドル。食卓には、手の込んだ料理が並んでいた。グラスには白ワイン。
その光景に、一瞬、言葉が出なかった。
「おかえりなさい」義母がエプロン姿のまま振り向いた。その笑顔が、いつもより少しだけ照れているように見えた。
「……これ、全部作ってくれたんですか?」
「うん。今日は、ちょっと特別にしようと思って」そう言って、手にしていた皿をそっとテーブルに並べる。
ローストビーフ、野菜のマリネ、グラタン、スープ、そして小さなケーキ。
そのケーキの上には、“Happy Birthday”のプレートが乗っていた。忘れていた。今日が、自分の誕生日だったことを。
「覚えててくれたんですね」
「忘れるわけないじゃない」そう言って笑った義母の声が、どこかくすぐったくて、でも嬉しくて、胸の奥にぽんと石を落とされたような衝撃があった。
テーブルを挟んで、向かい合って座った。キャンドルの灯りが、義母の頬に柔らかな陰影を落としていた。
ワインを少し飲んだせいか、頬が赤く染まっていて、それが妙に色っぽく見えた。
「すごく美味しいです」
「ほんと?それならよかった」そう言いながら、義母はグラスにワインを注いでくれた。
料理を口に運びながらも、俺の意識はどんどん彼女に向いていた。テーブル越しにふと視線が合う。何気なく微笑まれるたび、心臓がわずかに跳ねるのを感じた。彼女の声が心地よく響く。笑うときにできる目尻の皺すらも、美しく見えた。
食事が終わる頃には、部屋の中はさらに静けさを増していた。ワインを飲みながら、ふたりでゆっくりと話す時間。
この空気が心地いいのか、それともどこか怖いのか、自分でもわからなかった。
「もう大丈夫かな…」義母が、ぽつりと言った。
「……はい、お義母さんのおかげです」言葉にしてみて、初めて本心だったことに気づいた。
彼女がいなかったら、俺はたぶん、今でも空っぽのままだった。
「私……娘とは違うのよ」その一言に、思考が止まった。
彼女はまっすぐにこちらを見ていた。酔いのせいなのか、それとも本気なのか、表情は読み取りづらかった。
「……はい、わかってます」そう返したものの、胸の奥がざわついた。
何がどうわかっているのか、俺自身にもはっきりとは答えられなかった。
静寂の中、胸の奥が熱を帯びていくのがわかる。そのとき、俺は自然と手が伸びていた。テーブルの上で、彼女の手を、そっと包んでいた。
義母は驚いたように目を見開いたが、手を引くことはなかった。そのまま、ゆっくりと、指先を重ねるようにして、俺の手を握り返してきた。駄目だ。いけない。このままでは、関係が壊れてしまう。頭ではわかっていた。でも…もう俺には自分を止めることは出来なかった。彼女の目を見つめたまま、俺は立ち上がり、テーブルを回り込んだ。
義母も立ち上がる。距離はあと数十センチ。この一歩が、越えてはいけない線を踏み越える一歩になるとわかっていながら、足が止まらなかった。
「……だめよ」義母は、掠れるような声で言った。でも、その目は拒んでいなかった。
「わかってます。でも……もう、止められません」ゆっくりと彼女の体に手を回す。彼女の背中に手が触れたとき、彼女の体がビクっと反応し、そして震えているのがわかった。俺はその細い体を、そっと、でもしっかりと抱きしめた。
義母の体は、思っていたよりも華奢だった。抱きしめた瞬間、彼女の体は少し汗ばんでおり緊張しているのが伝わってくる。
けれど、拒むでもなく、押し返すでもなく、そのまま俺の腕の中に身を委ねてくれた。そのことが、どうしようもなく切なくて、そして温かかった。
「ごめんなさい……こんなつもりはなかったのに」耳元で、かすれた声がした。
「もう止められません…」声を震わせながらそう言った。彼女から離れることはできなかった。抱きしめる腕に、自然と力がこもる。
義母の体温が、服越しにじわりと伝わってくるたび、罪悪感と、それを凌駕する渇望がせめぎ合っていた。
妻の母だということ。亡くなった妻の面影をこの人の中に見ていたこと。
本当は、この関係が許されるはずのないものであること――頭では理解している。痛いほどわかっている。
それでも、目の前にいるこの人の温もりに、どうしても抗えなかった。
「……もう戻れないわね」義母が小さく、笑うように言った。その声が震えていた。
笑おうとして、泣きそうになっている、そんな声だった。
何かを言いかけたが、その先の言葉が出てこなかった。
“好き”というには、あまりにも曖昧で。
“愛してる”というには、あまりにも未熟で。だけど、たしかに彼女を求めていた。
義母の指先が、そっと俺の頬をなぞる。それが合図だったのかもしれない。
俺は、彼女の唇に、そっと口づけた。
柔らかくて、温かくて、少しだけ塩の味がした。彼女は何も言わずに、目を閉じた。
どこかに行ってしまいそうなその表情を、俺はしっかりと胸に刻み込んだ。
その夜、俺たちは初めて、一線を越えた。
照明を落とした薄暗い寝室。
肌と肌が触れ合うたびに、いけないことをしているという意識が強くなる。
それでも止められなかった。壊れそうなほどお互いが求めていた。
何度も心の中で「ごめんなさい」とつぶやいた。妻に、世間に、過去の自分に。
でもそのたびに、彼女の手が俺の背を撫でて、言葉を飲み込ませた。
終わったあと、俺たちは無言で並んで寝転がっていた。天井を見つめたまま、何も言えずにいた。
どちらからともなく指先が触れ合い、それが再び、心を落ち着けていった。
罪と癒しの境界線が、わからなくなるような夜だった。
でも、それが“救い”だったのも、たしかだった。
翌朝、義母の声で目を覚ました。
「おはよう、浩介くん」いつもの、穏やかな声だった。
まるで何事もなかったかのように、キッチンから朝食の匂いが漂ってきていた。
俺はゆっくりと体を起こし、リビングへ向かった。
彼女はいつも通りエプロンを着けて、フライパンを返していた。
その後ろ姿が、不思議と眩しく見えた。
「おはようございます」
少し照れながらそう言うと、義母は笑ってコーヒーを差し出してくれた。
二人で向かい合い、静かにコーヒーを飲む。
何も言わなくても、すべてが通じ合っている気がした。
罪悪感は消えていない。亡き妻の面影も、まだ胸の奥にある。
俺たちは、もう戻れない。
でも、戻らなくていいとも思っていた。
そう思えることが、なぜか、少しだけ涙が出るほど嬉しかった。