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噂の団地妻

いつまでも若く背徳裏切り
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唇が、触れた。 雨の匂いと、彼女の微かな化粧の香り。そして、熟れた果実のような甘い吐息。 目の前には、潤んだ瞳の美咲さんが立っていた。長いまつ毛が雨粒に濡れ、頼りなげに震えている。 俺はいま、何をしているんだ? 季節外れの台風が近づいているとかで、生暖かい風が団地の隙間を吹き抜けていく。 バス停の小さな屋根の下、二人きり。雨音だけが、やけに大きく聞こえた。 

「ごめんなさい…」 先に唇を離したのは、彼女の方だった。小さな声が、雨音に溶けそうになる。 

「いや、俺の方こそ…」 言葉が続かない。心臓が早鐘のように鳴り、指先が痺れている。58にもなって、こんな動揺は久しぶりだ。いや、初めてかもしれない。妻以外の女性と、こんな…。

美咲さんは、この春に隣の棟に越してきた女性だ。挨拶を交わす程度の仲だったはずが、どうしてこうなった?

 きっかけは、先週の自治会の集まりだった。つまらない議題に退屈していた俺の隣に、彼女が偶然座った。その時、ふと耳にした噂話。

「あそこの棟の奥さん、派手よね」

「なんでも前の旦那さんとは、アレが原因で別れたとか…」

「夫婦交換?信じられないわよねぇ」 ひそひそと交わされる会話。まさか、隣に座っている彼女のことではあるまいが、その言葉の響きが妙に耳に残った。 その日の帰り道、雨宿りのバス停で二人きりになった。他愛ない会話。のはずだった。 彼女の寂しげな横顔。時折見せる、はっとするような艶やかさ。俺の中に眠っていた何かが、静かに目を覚ますのを感じていた。 「高橋さん…」 彼女が俺の名前を呼ぶ。その声が、雨音よりも鮮明に鼓動を打つ。 これは、いけない。わかっている。俺には長年連れ添った妻がいる。平穏な、しかしどこか退屈な毎日があった。それを壊すわけにはいかない。 だが、目の前の美咲さんから目が離せない。彼女の瞳の奥に、俺と同じような孤独と、そして危険な誘惑の色が見えた気がした。雨はまだ、止みそうにない。この小さなバス停が、世界から切り離された秘密の場所のように思えた。

俺の名前は、高橋健一。58歳。この春、長年勤めた高校教師の職を早期退職した。定年までもう少しだったけど、充分な貯えもあったので、元気なうちにと思い思い切って退職した。それでも、講演会をたまにお願いされるので、それが唯一の今の仕事だ。まだ年金をもらうことは出来ないので細々と質素な生活で暮らしている。妻の和子とは、もう30年以上になるだろうか。大きな波風もなくやってきたが、子供たちが独立した今、夫婦の会話はめっきり減った。空気のような存在、と言えば聞こえはいいが、互いに無関心になりつつあるのかもしれない。そんな退屈な日常に、彼女は突如現れた。

彼女の名前は佐伯美咲さん。44歳。夫と二人暮らしで、この団地に引っ越してきたばかりだという。最初に挨拶を交わしたのは、団地のゴミ捨て場だったか。朝の慌ただしい時間、軽く挨拶しただけ。その時は、綺麗な人だな、と思ったくらいだった。すらりとした立ち姿に、どこか影のある表情。年齢よりも若く見える。

本格的に言葉を交わしたのは、例の自治会の集まりだ。くじ引きで、俺と彼女は次のイベントの準備係になった。本当はもう一人いたが、仕事で中々参加されなかった。なのでいつも、二人での打ち合わせ、買い出し。一緒に過ごす時間が増えるにつれ、彼女のことを少しずつ知っていった。 美咲さんは、口数は少ないが、時折見せる笑顔がとても魅力的だった。そして、ふとした瞬間に見せる憂いを帯びた表情に、俺はなぜか強く惹きつけられた。 聞けば、夫は長距離トラックの運転手で、家を空けることが多いらしい。一人でいる時間が長いせいか、どこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。 

「高橋さんは、ずっと教師を?」 ある日の打ち合わせの後、喫茶店で彼女が尋ねた。

 「そうなんですよ。国語を教えていました。退屈な仕事でしたよ」

 「そんなことないでしょう。生徒さん、慕っていたんじゃないですか?」

 「どうですかねぇ…」照れ隠しに、コーヒーカップに視線を落とす。

目の前の美咲さんは、どこか儚げで、都会の団地に埋もれているのが不思議なほどだった。

美咲さんと会う時間が増えるにつれて、俺の心は揺れ動いた。彼女といる時の高揚感と、妻に対する罪悪感。その二つの感情が、交互に俺を苛む。 日中、公園のベンチで話す。スーパーで偶然を装って会う。どちらからともなく誘い、二人きりになれる場所を探す。人目を忍ぶ逢瀬は、背徳感と同時に、禁断の蜜のような甘美さをもたらしていた。 

「大丈夫ですか?_顔色が悪いですよ」 公民館の帰り道、彼女が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。 

「いや、ちょっと考え事をしていて」 

「奥さんのこと?」 ドキリとした。彼女には、俺の心の揺らぎが見透かされているのかもしれない。

 「…まあ、少しは」

 「…うちもね、いろいろあるんですよ」 美咲さんは、ぽつりと言った。彼女の夫との関係も、決して円満ではないのかもしれない。そう思うと、少しだけ救われたような、それでいてより深い罪悪感に囚われるような、複雑な気持ちになった。

例の「夫婦交換」の噂が、再び俺たちの間に影を落としたのは、そんな時だった。団地の掲示板の前で、近所の主婦たちがまた噂話に花を咲かせている。 

「聞いた?あの奥さん…」 俺と美咲さんは、目を合わせ、足早にその場を離れた。

 「ほんと、女性って噂話が好きですよね」先に口を開いたのは美咲さんだった。

 「ああ、まったくだ」 彼女は悪戯っぽく微笑みながら、

「でももし、そんなことが本当にあったら…高橋さんは、どうします?」 冗談めかしているが、その瞳は真剣だった。俺は言葉に詰まった。

「まさか、俺たちが…」そんな考えが、心の片隅をよぎる。そんなはずはない。だが、彼女の問いかけは、俺たちの関係の危うさを改めて突きつけてきた。俺たちは、どこへ向かっているのだろうか。

直接的な言葉は交わさない。だが、視線が合うたびに、空気が張り詰める。 公民館の狭い準備室。資料を探すふりをして、彼女の隣に立つ。肩が触れそうになる距離。彼女のシャンプーの香りが、鼻腔をくすぐる。意識しないように努めても、心臓の音がうるさい。 「この資料、どこに置きましたっけ?」 彼女の声が、すぐ耳元で聞こえる。振り向けば、彼女の顔がすぐそこにある。その距離感が、たまらなくもどかしく、そして甘美だった。 触れたい。でも、触れてはいけない。その葛藤が、濃密な空気を作り出す。言葉よりも雄弁に、互いの気持ちが伝わってくるような気がした。 揺れる視線。指先が微かに触れる偶然。張り詰めた空気の中で交わされる、短い会話。そのすべてが、大人の恋愛の駆け引きであり、静かな、しかし激しい心理戦だった。俺たちは、互いに惹かれ合いながらも、一線を越えることを恐れていた。その危ういバランスの上に、俺たちの関係は成り立っていた。

季節は夏に移り、蝉の声が喧しくなってきた。俺と美咲さんの関係は、誰にも知られることなく続いていた。いや、そう思っていたのは俺だけだったのかもしれない。 その日、俺は美咲さんと、少し足を延ばして隣町の公園に来ていた。木陰のベンチで、とりとめのない話をする。彼女の笑顔を見ていると、日常の憂鬱が嘘のように消えていく。

 「健一さん、見てください。綺麗な蝶」 彼女が指さす方を見ると、アゲハチョウがひらひらと舞っていた。その無邪気な姿に、思わず笑みがこぼれる。 その時だった。

 「あなた…こんなところで何をしているの?」 冷たい声が、背後から聞こえた。振り返ると、そこに立っていたのは、妻の和子だった。買い物袋を提げ、驚きと、そして深い疑いの表情で俺たちを見ていた。 血の気が引いた。なぜ、和子がここに?偶然?それとも…?

 「いや、これは…その、自治会の…」 しどろもどろになる俺の隣で、美咲さんは青ざめた顔で俯いていた。 

「自治会の用事で、わざわざ隣町の公園まで来る必要があるの?」 和子の声は、静かだが、怒りに震えていた。その目は、俺ではなく、美咲さんを射抜くように見つめている。

 「佐伯さん、でしたわね?いつも主人がお世話になっています」 その言葉には、棘があった。

「すいません、急に気分が悪くなって、休んでたんです」美咲さんは、小さな声で、ただ頭を下げるだけだった。 気まずい沈黙が流れる。蝉の声だけが、やけに大きく聞こえる。

 「帰りましょう、あなた」 和子は俺にそう言うと、踵を返した。俺は、立ち尽くす美咲さんに一瞥もくれず、妻の後を追うしかなかった。

帰り道、車の中は重苦しい沈黙に包まれていた。和子は一言も口を開かない。それが逆に、嵐の前の静けさのように感じられ、恐ろしかった。 家に着くと、和子は堰を切ったように俺を問い詰めた。

 「いつからなの?あの人と、どういう関係なの?」

 「違うんだ、和子。本当に、ただの…」

 「嘘をつかないで!私を馬鹿にしないで!」 初めて見る妻の激しい感情。俺は何も言い返せなかった。心のどこかで、いつかこうなる日が来ることを予感していたのかもしれない。 その夜、俺は書斎のソファで眠った。眠れない夜だった。妻への申し訳なさ、そして美咲さんへの想い。罪悪感が、鉛のように重くのしかかる。もう、美咲さんとは会えない。会ってはいけない。それが正しい選択だ。そう自分に言い聞かせた。だが、脳裏には、あのバス停でのキスと、公園での彼女の笑顔が焼き付いて離れなかった。俺たちの関係は、こんな形で終わりを迎えるのか…?

嵐のような夜が明け、重い気持ちでリビングへ行くと、和子は意外にも落ち着いた様子で朝食の準備をしていた。 

「…昨日は、取り乱してごめんなさい」 テーブルに着くと、和子が静かに言った。 

「いや、俺が悪かったんだ」

 「…正直に話してほしいの。あの人とは、どういう関係だったの?」 俺は、観念して全てを話した。美咲さんとの出会い、一緒に過ごした時間、そして、バス停でキスをされたこと。体の関係はなかったこと、しかし、心が惹かれていたことは正直に伝えた。 和子は黙って聞いていた。そして、ぽつりと言った。

 「…あなた、最近少し変わったと思っていたわ。楽しそうにしている時も、どこか上の空の時もあって」 気づいていたのか…。鈍感だと思っていた妻は、俺の変化を敏感に感じ取っていたのだ。 

「…これから、どうするつもり?」

 「もう、会わない。約束する」 俺はきっぱりと言った。それが、妻に対する最低限の誠意だと思った。

 「…そう」和子はそれ以上何も言わなかった。

その日から、俺たちの間にはぎこちない空気が流れたが、以前のような無関心ではなく、互いを意識するような、妙な緊張感が生まれた。失いかけて初めて、妻の存在の大きさに気づいたのかもしれない。俺は、壊れかけた関係を修復しようと努めた。些細なことでも話しかけ、週末には一緒に買い物に出かけた。

美咲さんとは、あの日以来、一度も会っていない。団地内で姿を見かけることもなくなった。風の噂で、夫の仕事の都合で、遠くに引っ越したと聞いた。彼女が最後にどんな表情をしていたのか、俺は知らない。これでよかったのだ、と自分に言い聞かせる。

数ヶ月が過ぎた秋の日のこと。本棚を整理していると、一冊の本の間から、押し花にされた紫陽花の花びらが一枚、はらりと落ちた。あの日、雨宿りのバス停で、美咲さんが髪に挿していた花だ。いつの間に、俺の本に挟まれていたのだろう。 その小さな紫陽花を手に取り、窓の外を見る。空は高く澄み渡り、金木犀の香りが漂ってくる。 胸の奥が、ちくりと痛んだ。切ないけれど、不思議と後悔はなかった。あれは、短い夏の日の、儚い夢だったのかもしれない。

俺は、紫陽花の押し花を、そっと手帳に挟んだ。誰にも見せることのない、俺だけの秘密の栞だ。 和子が淹れてくれたコーヒーの香りが、部屋に満ちている。

 「あなた、今日のお昼、何にする?」 リビングから、和子の穏やかな声が聞こえる。

 「ああ、そうだなぁ…」 俺は手帳を閉じ、立ち上がった。窓から差し込む柔らかな日差しが、新しい朝の訪れを告げていた。失ったものもある。けれど、手元に残った日常の温かさを、今は大切にしたい。そう、心から思えるようになっていた。美咲さんの幸せを、遠くからそっと願う。それでいい。俺たちの”純愛”は、それぞれの場所で、静かに続いていくのだ。

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