
暗い寝室の隙間から、俺はその光景をただ見つめていた。艶やかな黒髪を揺らしながら、ベッドの上で乱れる妻。彼女の手を取ったのは、俺ではない。
「何もかも忘れさせて…」妻の言ったその言葉に俺はその場で動けなくなった。
どうしてこうなったんだ?湧いた気持ちは怒りでも、悲しみでもない。抑えきれない興奮と、それに続く自己嫌悪だった。
歪んでいる。狂っている。分かっているのに、目を逸らせない。愛しているのに。
この夜、俺は知った。自分の中に潜む、意識していなかった異常とも呼べる自分の癖に…
俺の名前は聡。38歳。広告代理店に勤める、ごく平凡な男だ。妻の美咲とは、10年前に結婚した。当時は互いに仕事が忙しかったが、支え合い、愛し合い、乗り越えてきたつもりだった。心から信じていたし何があっても、二人で生きていくと思っていた。そう、あの日、あの瞬間までは。
きっかけは、些細な違和感だった。家で美咲が見せた、携帯を伏せる仕草や妙に増えた外出。そして、部屋に残る微かな異物感のある匂い。疑いたくなかった。信じたかった。だが人間っていうのは疑い出したら止まらない。ついに俺は、美咲の後を、こっそりつけたのだ。
そして辿り着いたのが、見知らぬ男のマンション。
誰なんだあいつは…親しげに妻と話している様子を見ても、やはり不倫と思っても仕方なかった。男のマンションに入ってしまっては確かめようがない。俺はここで自ら餌を蒔くことにした。まず出張だと嘘をついた。そこで俺が家を空けるとなれば、美咲も自宅に男を呼ぶはずだ。
数日後4日間家を空けると嘘をつき、俺は1日家を張ることにした。早速初日だった。あの男が、来たんだ……
本当ならすぐに出ていってやりたかったんだが、ひとまず一呼吸置くことにした。そして1時間経過した時俺は非常階段からつたって、こっそりベランダから忍び込んだ。もちろん俺の部屋の窓のカギは開けておいた。命がけだったが何も怖くなかった。
俺と美咲の間には二人の子供がいる。二人とも今は小学校に行っている時間だ。だから不倫するなら朝から昼間にかけてだと踏んでいた。
予想通り、家の中へ入ったら男と美咲は盛り上がっていた。声が漏れ聞こえてくる。最近は夜もご無沙汰だったこともあり、美咲の乱れる姿は久しぶりだった。はじめは男と美咲に対しての怒りがあった。今すぐに出ていって引きずり回してやろう。そう思っていたのも事実だ。しかし俺は動けなかった。それどころか美咲と男の姿に釘付けになってしまったんだ。
なんで…?
それを見て何もできない自分に悔しかったのではなく、美咲の不倫現場を覗き見ながら、昂ぶってしまった自分自身が悔しくてわけがわからなかった。なぜ、こんな感情が湧くのか。なぜ、拒絶よりも先に、興奮してしまうのか。
結局妻の乱れる様子に俺は何もできず、その場を去ることしかできなかった。俺は気づいてしまったんだ。
自分の “異常” とも呼べる癖に。
そしてこれこそが引き返せない道の始まりだったのだ。
しばらくの間俺は呆然としていた。俺、どうして美咲と結婚したんだっけ…?そんなことまで考えるようになったんだ。美咲と出会ったのは、13年前。職場の合同飲み会だった。当時、俺はまだ社会人2年目。仕事にも慣れず、ただ毎日がむしゃらだった頃だ。
あの日、美咲はグラスを片手に、少し離れた席で同僚たちと談笑していた。落ち着いた雰囲気と時折見せる柔らかな笑顔に、自然と目を奪われた。きっかけは、ほんの些細なことだった。帰り道が偶然同じ方向で、酔った勢いもあり、少しだけ話をした。
家が近いとか、職場までの道の話とかそんな他愛もない会話だったのに、なぜか胸が高鳴ったのを覚えている。
それから、何度か職場の飲み会で顔を合わせ、自然な流れで二人で食事に行くようになった。何度かのデートを重ねるうちに、俺は確信していた。この人と、ずっと一緒にいたい。その気持ちがわかった時俺は彼女に告白して交際がスタートした。
交際が始まると、俺たちは毎週末のように会った。美咲は穏やかで、聞き上手で、何よりも一緒にいると安心できた。そして何よりも普段の清楚な雰囲気とは違い夜が激しいのもギャップの一つだった。辛い時も、嬉しい時も、隣にはいつも彼女がいた。
結婚を意識したのは、付き合って3年目。きっかけは特別なものじゃなかった。ある休日、二人でぼんやりテレビを眺めていた時、美咲がふと呟いた。
「もし私たち、結婚したらどんな家に住むんだろうね」
その一言で、俺は決めた。翌月、手作りの指輪を差し出しながら、不器用な言葉でプロポーズした。
美咲は驚いたように目を丸くして、それから泣きながら頷いてくれた。あの時の、美咲の笑顔、あの涙。すべてが、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。新婚時代は決して楽ではなかった。俺の仕事は激務で、帰りが深夜になることも多かったし、 美咲も職場で責任あるポジションを任されるようになり、ストレスを抱えていた。それでも、支え合って生きてきた。
些細な喧嘩もあったけど、互いに「ごめんね」と言い合い、 抱きしめて、許し合ってきた。
子供が生まれた時は、本当に嬉しかった。泣きわめく赤ん坊を、二人で交代しながらあやした夜。寝不足でフラフラになりながら、笑い合った日々。あの日々は、確かに、嘘じゃなかったはずだ。俺も、美咲も、確かに愛し合っていた。少なくとも、俺は、そう信じていた。
なのに、どうして今こんなことになってるんだ…?なぜ、あの夜、美咲は他の男の腕の中で微笑んでいたんだ。
なぜ、俺は、その光景に、怒りよりも興奮を覚えてしまったんだ。
過去の幸せな記憶と、今この瞬間の現実とのギャップに、俺は激しく揺れていた。
そして、知らなかった俺の感情。妻が他の男といるとなれば普通は怒りしかない。でも俺はそうじゃなかったんだ。
認めたくない。けれど、もう気づいてしまった。俺は、美咲が乱れる姿を見るのが好きなのだと。たとえそれが自分自身じゃなくても…。
頭では理解できている。これは妻の裏切りだ。俺たちの積み重ねた期間を、美咲は、たった一瞬で踏みにじったんだ。なのに、どうして。どうして俺は、心のどこかであの光景を求めている?気づけば俺はまたとんでもないことをしてしまった。
「来週、また出張になったよ」そう言って妻に不倫を促してしまった。それを聞いた美咲は心なしか、口角が緩んだように俺は見えた。
そしてまたその時がやってきた。あの日と同様昼間になって仕事の合間を縫って自宅へ戻った。また命がけで非常階段からつたってベランダへ飛び移る。
すると今回美咲たちは大胆にも寝室ではなく、リビングで男と戯れていた。
俺や子どもたちが普段使用しているリビングが、今はもう汚い場所へと変わってしまった。本来なら許せることではない。
でも気づけば俺は美咲と男の様子を見ながら俺の顔は笑っていたのだと思う。
聞いたことのない美咲の声が漏れるたび、胸がざわついた。それは怒りでも悲しみでもなく、もっと異質な、熱を孕んだ感情だった。
転がったTシャツ。無造作に脱ぎ捨てられたスカート。男の荒々しい手つきに応えるように、美咲の細い腕が伸びる。
俺には見せたことのない表情、聞かせたことのない声。目の前に広がる現実に目を逸らすこともできなくて。興奮が抑えられなかった。
「私のこと、めちゃくちゃにして…」そんな声すら、耳に届いてしまった。愛していたはずの妻が、別の男に体を許し、快楽に沈んでいく。その事実に、俺の心も身体も、どうしようもなく反応してしまっていた。もはや美咲とこれまで築いてきた関係などどうでも良いと思えるほど、知らない美咲をもっと見たいとさえ思っている。もう、元には戻れない…
そんな確信にも似た感情を抱えながら、俺は一旦家を出ようとした。しかしこちらの方を一瞬美咲が見た気がした。
だが俺はすぐに自室にもどりベランダから家を出た。そしてその日はビジネスホテルに泊まり、翌日帰宅した。
リビングには、何事もなかったかのように、美咲が座っていた。子どもたちの帰りを待ちながら、テレビをぼんやりと眺めている。
俺がドアを開ける音に気づくと、美咲はふわりと微笑んだ。
「おかえりなさい。」その声も、仕草も、何も変わっていない。昨日までの乱れた様子など本当に、何もかもなかったかのように。
先ほど目が合ったのは勘違いだったのだろうか。俺もまた、何もなかったかのようにただいまと答えた。
しかし内心は穏やかではない。リビングのソファ、テーブル、カーペット。そこかしこに、あの男との痕跡がこびりついている気がしてならなかった。その汚れた空間に、美咲がいる。
本来なら罵って咎めるべき、その美咲を俺は、まだ、愛している。
「疲れたでしょ? 何か食べる?」立ち上がろうとした美咲の腕を、俺は、思わず掴んだ。
「……美咲。」呼び止めた俺に、美咲が小さく瞬きする。
「なに?」その無垢な声が、刺さる。本当に何もなかったふりをしているのか、それとも、バレていることに気づいているのか。
分からないが今、この手を離したら、きっともう二度と取り戻せない気がした。
「……こっちに来て。」引き寄せると、美咲は抵抗せず、俺の膝にそっと座った。
柔らかい体温が、服越しに伝わる。だけど、どこか遠い。まるで、目の前にいるのに、手の届かない存在みたいだった。
「……好きだよ、美咲。」ぽつりと呟いた言葉に、美咲は少しだけ目を伏せた。そして、震える声で答えた。
「……私も、好きだよ。」嘘だ。美咲はさっきまで違う男と一緒にいた。だが同時に、そんな言葉でも欲しかった自分が情けなかった。
美咲の髪に顔を埋める。ほのかに香るシャンプーの匂い。だけど、その奥に微かに漂う、違う匂い。
俺の胸に、ぐちゃぐちゃに渦巻いた感情が広がっていく。憎い。でも、愛しい。裏切られた。でも、離れたくない。
もう、どうしようもなかった。俺は、美咲を強く抱きしめた。 壊してしまいそうなほど、強く。
「ねぇ、どうしたの…?」その言葉に俺は沈黙してしまった。俺は彼女を抱きしめる手が緩んでしまった。
この沈黙がまるで、もう俺達の関係は終わりだと言っているようなものだった。
だが俺はそんなことで終わりたくなかった。たとえ他の男と不倫してしまうような妻であっても、俺は彼女と離婚することは考えられなかった。むしろ異常とも言えるこの俺の性癖を満たしてくれるのは、美咲しかいない。
そこで俺は不倫について初めて言及した。
「美咲が不倫しているのは知ってる。あの男とはいつからなんだ?。」美咲は黙って聞いていた。
そして俺は美咲からあの男が誰なのかを聞き出した。どうやら元彼だったらしい。
たまたま水道の点検でやってきたのが、奴だったらしい。互いに既婚者だったが、久しぶりに会ったことで二人は再熱してしまったようだ。
バレてしまった以上、離婚するしかないと美咲は言った。そこで同時に俺は自分の思いを彼女に伝えた。
「別れるつもりはない。お前は別れたいのか?」当然だが美咲は目を丸くして驚いていた。なんで…?
そう言いたげな顔だった。そして俺は自分の異常さを伝えた。お前が寝取られたのを見て、俺は興奮してしまっていたことを。
美咲はそれを聞いている時、何も言わなかった。引かれたと思った。
だって本来なら咎められるべき場面なのに、興奮していると言われて気持ち悪いと思ったことだろう。
更に俺はこんなことまで口走ってしまった。
「これからも美咲の乱れてる姿を…見たいと思ってしまった。俺はたとえ不倫していたとしても美咲のことが好きなんだ。もっと色々な顔が見たいんだよ…」
すると美咲は顔を怒っているのか照れているのか真っ赤にしていた。そして俺の方を振り向き、軽くキスをした…
その後はもう勢いに任せた。俺は、美咲をソファに押し倒した。そして、いつもと違う、乱暴なキスを落とした。
驚いたように目を見開いた美咲。でも、自分のしたいようにした。美咲の気持ちなんか考えなかった。むしろ、細い腕を俺の背に回し、
応えるように唇を開いた。もう、後戻りなんてできない。
俺は美咲の体を乱暴に求めた。美咲もまた、甘く、そして熱っぽい吐息を漏らしながら俺に応えた。
そういえばこの時が夫婦としては久しぶりの営みだった。ソファは二人の熱で軋み、指先で触れるたび、美咲の体は小さく震えた。
ずっと男との不倫を見ていたからか、俺も我慢していた部分があったのかもしれない。美咲には多少荒々しく映ったかもしれない。
だが彼女はすべて受け入れてくれた。おそらく不倫をしたことへの罪悪感が少なくとも美咲の中にあるのだろう。
昼間、別の男に見せていたあの表情を、今度は俺だけに向けてほしかった。
もう誰にも見せたくないと思い始めていたんだ。あれだけ美咲が誰かに取られる姿に興奮していたのに、今は独占欲が強くなっている。
これも久しぶりのコミュニケーションの中で生まれたことだろうか。
「美咲……」耳元で呼びかけると、彼女はかすかに頷き、まるで懺悔するように俺の名前を何度も囁いた。
「聡、ごめんなさい…ごめんなさい」涙すら滲ませながら、縋るように俺にしがみついた。
それを見るともっと後悔させたくなった。愛しいけど憎い。許せない。でも、離したくない。
ぐちゃぐちゃに絡み合った感情が、 俺たちの体をより激しく結びつけた。どれだけ求めても、満たされない気がした。
美咲のすべてを、自分だけのものにしたくて。 誰にも渡したくなくて。
「美咲、俺から離れるなよ……もう二度とだ」子供のような言葉を吐く俺に、美咲は目を伏せて微笑んだ。
あの日の誓いよりも、もっと深く、どうしようもなく汚れてしまった絆で、俺たちは、再び繋がった。
やがて落ち着きを取り戻すと、 美咲はそっと俺の胸に顔を埋め、囁いた。
「私……これからも、そばにいても良いの?」涙ぐんだ声だった。
昼間、別の男に抱かれていたことも、それでもなお求め合ったことも、すべてを知ってなお、そばにいる俺への問いだった。
俺は無言で、美咲の髪を撫でた。いつの間にか美咲は俺に従順になっていた。
どんな形であれ、これが俺たちの愛なのだと、どこかで悟っていた。歪んだ愛でもいい。
裏切りがあってもいい。誰がどう笑おうと、 俺は美咲と生きていくと決めたのだから。
そっと目を閉じると、 美咲のぬくもりが、深く深く、俺に染み込んでいった。
もう、以前のような関係には戻れない。それでも俺たちは、これからも一緒に堕ちていく。
だけど別れることは決してない。互いを求め、傷つけ合いながら、誰にも見せられない、二人だけにしかわからない夫婦の形を築いていくんだ…