俺の居場所は、この家にはもうないらしい。
44歳の俺、近藤信也。妻の舞子と16歳の娘・鈴と暮らしているが、家庭は冷え切り、俺はまるでいないかのような存在だ。舞子は俺を無視し、鈴もいつからか目を合わせることすら避けるようになっていた。俺が彼女に話しかけても、ほんの一瞬、眉をしかめるだけで何も言わず自室へと駆け込む。その光景に、舞子は冷たく吐き捨てるように言う。
「子育てしてないからそうなるのよ」
その言葉が胸に突き刺さるが、俺はただ黙って受け流すしかなかった。気がつけばこんな家族関係になってしまったが、決して俺は、そこまで最低の夫でも父親でもないと思っている。家事もできる限り手伝い、仕事も人並み以上に稼いでいる。だが、舞子が俺への態度を硬化させるにつれて、次第に鈴の態度も冷たくなっていった。どう考えても、舞子が影で俺の文句を鈴に吹き込んでいるのだろう。それが分かっていても、もう彼女に抗議する気力すら残っていなかった。
思えば、最初はそんな関係ではなかった。舞子は優しく、鈴が生まれたときには家族みんなが幸せだった。だが、数年前から仕事が忙しくなり、残業や出張が増えた頃から、俺は次第に家族と話す時間を失っていった。帰宅しても、舞子は無表情に「おかえり」と言うだけで、いつの間にか俺を部屋に一人残して寝室へ去っていく。家族が変わってしまったのか、それとも俺が彼らを遠ざけたのか。今となってはもう、答えは分からない。
そんなある日、俺は仕事中に事故に遭い、骨盤を折る重傷を負った。医師は無情にも「今までのように歩けるかはわからない」と告げ、長期の入院を余儀なくされた。病室で一人、これからどうなるのか不安に苛まれていると、知らせを受けた舞子が駆けつけてきた。しかし、彼女の口から出た言葉は予想もしないものだった。
「これからどうなるのよ?」
その一言に、胸の奥に沈んでいた失望が一気に表面に湧き上がってきた。俺が苦しんでいる時でさえ、彼女には俺を気遣う心は一切ないのか。そこには、心配や励ましの言葉はおろか、ただ俺の状態に対する苛立ちと怒りだけが感じられた。この瞬間、俺たちの関係が完全に終わったと感じた。
そんな俺の隣で、妻の姉・真理さんが彼女をたしなめてくれた。
「あんた何言ってるのよ。お金よりも信也さんが大事じゃないの?」
真理さんに説教された舞子は顔をしかめ、無言のまま病室を出ていった。俺はただ呆然とその背中を見送るしかなかった。冷たい視線を向ける彼女が、かつて同じベッドで眠り、娘の成長に一緒に喜んでいた妻と同じ人間とは思えなかった。
それからの入院生活、舞子は最初こそ顔を見せていたものの、数日経つとぱったりと訪れなくなった。代わりに、真理さんが毎日のように面会に来てくれるようになった。食事や身の回りの世話、医師からの説明まで、真理さんが一手に引き受けてくれた。彼女の気遣いと優しさは、舞子の無関心と対照的で、その温かさが胸にしみた。
ある夜、俺は思い切って彼女に舞子や鈴との家族の現状を打ち明けた。
それを聞いた真理さんは、一瞬ためらい、顔を赤らめたあとで、静かに言葉を続けた。
「信也さん、今だから言いますけど…舞子、浮気してるわ」
その言葉を聞いた瞬間、驚きよりもむしろ、胸の奥に積もっていた疑念がすっと腑に落ちた。家に帰るたびに味わってきた息苦しさが、これで説明がつく。俺は静かに離婚を決意し、その気持ちを真理さんに伝えた。
「俺、退院して社会復帰できたら、舞子と離婚します」
リハビリが始まってからも、真理さんは毎晩俺の介護を手伝ってくれた。彼女は舞子の仕打ちへの贖罪のつもりだったのかもしれないが、その愛情に満ちた気遣いに、俺は少しずつ真理さんに心惹かれていくのを感じた。ある夜、リハビリが辛くて心が折れそうになった時、ふと肩に触れた真理さんの手の温かさが胸に沁みた。それはもう、数年ぶりに感じた「優しさ」だったかもしれない。
ようやく杖で歩けるまで回復し、自宅に戻った俺は、舞子と最後の話し合いをすることにした。彼女に離婚を切り出す覚悟はできていた。
「離婚しよう」
「は?何言ってるの?」
舞子は薄笑いを浮かべながらも、その目には焦りの色が混じっていた。俺はためらわずに返した。
「浮気しているのはお前だろう。証拠もある」
そう言って、探偵に依頼して調査しておいた浮気の証拠写真を彼女の目の前に突き出した。舞子の顔が一瞬で歪み、目の奥に怒りと狼狽が入り混じった色が浮かんだ。
「気持ち悪い女だな。何度もこの家に男を連れ込んで、俺を侮辱するのも大概にしろ」
「あなたが悪いんでしょ!」と逆上する舞子。そのとき、階上から鈴が階段を降りてきて、俺たちの間に割り込んだ。
「お母さん、浮気してたの?」
「お父さんが悪いのよ!」と舞子が怒鳴り返す。
俺は鈴に静かに向き合い、迷いながらも伝えた。
「鈴、母さんにいろいろ聞かされていたかもしれない。でも、本当に俺が悪いと思うか?お前ももう自分で判断できる歳だ。どっちについてくるか決めなさい」
鈴は黙り込み、視線を落とした。その沈黙が胸に痛みを残す。俺は父親として、どこまで娘を守ってやれただろうか。ふいに涙がこぼれそうになるのを堪え、彼女に背を向けた。
「俺はこの家は処分して、別の所で暮らすから。決めたら後で電話しておいで」
そう言い残し、俺は最低限の荷物をまとめて家を後にした。
向かった先は、真理さんの家だった。事故以来、ずっと俺を支え、励ましてくれた彼女の温かい気遣いが心に沁みていた。玄関のチャイムを鳴らすと、少し驚いた様子の真理さんが扉を開け、俺を迎え入れてくれた。
「信也さん、舞子に言ったのね。妹が本当にごめんなさい」
「信也さんと鈴ちゃんが良ければずっといてくれて良いのよ。部屋も余ってるしね」
俺は真理さんの目をじっと見つめた。彼女のその瞳には恋愛感情はなく、あくまで妹のしでかしたことへの償いとしての思いが感じられた。けれど、今の俺には、そんな彼女の優しさだけで十分だった。
数日後、鈴から連絡が入った。
「お父さん、私もそっちに行きたい」
鈴の声にはわずかに涙の震えが混じっていた。あの家で、一人で母と向き合うのは辛かったのかもしれない。俺は深くうなずき、「待っているよ」と静かに応じた。
今は、鈴と真理さんと三人で、不思議な共同生活が始まった。まだ傷は完全には癒えていないが、少しずつ温かな空気が心に満ちてくる。これが新しい家族の形になるかは分からないが、俺はまた、一歩を踏み出せる気がしていた。