
朝起きて、食器を洗って、洗濯物を干して、買い物に行って、夕飯を作って、夫の帰りを待つ。
そういう毎日がもう何年も続いていた。慣れてしまえばそれが当たり前になって、特別不満があるわけでもなかったけれど、どこか心のどこかが渇いていた。
笑顔で「おかえり」と言う。夫はテレビをつけてビールを飲み、寝るまでの時間を静かに過ごす。
無口な人だから、会話は少ない。だけど怒鳴られたり無視されたりするわけじゃないし、働き者で、生活に困ることもない。
きっと、こういうのが“平穏”ってやつなのだろう。
でも、ふとしたときに考えてしまう。
このまま、何も起こらず、ただ年を取って、静かに終わっていくのだろうかと。
特別な出来事なんて、もう二度とないんじゃないかと。
そんなときだった。夫が少し困ったような顔をして、転勤が決まったと告げた。
今度の赴任先は東北。真冬には道路が凍るような寒い地方らしい。
私は寒いのが苦手で、冬になるたびに肩をすくめ、手足の指先が冷たくなるのをただ我慢していた。
だからその話を聞いた瞬間、正直気が重くなった。
けれど、夫はどこか申し訳なさそうに、言葉を続けた。
自分だけが先に引っ越すこと、寒さに弱い私を無理に連れていくつもりはないこと、そして――実家の父、つまり私にとっての義父の面倒を見てくれないか、ということ。
義父の陽一さんとは、年に数回顔を合わせる程度の関係だった。
落ち着いた人で、無口だけど礼儀正しく、笑うと口元にしわが寄るのが印象的だった。
数年前から足を悪くし、杖を手放せなくなったと聞いていた。
さらに昨年、義母が亡くなったあとは、急激に老け込んでしまったとも。
それでも、まさか一緒に住むことになるなんて、思ってもみなかった。
でも、夫の言葉には本音が混じっていた。
父親が心配なのだ。離れていても安心できる人に見てもらいたい。
それが、たまたま私だった、というだけ。
断る理由はなかった。
むしろ、内心では少しだけ、心が浮き立っていたのかもしれない。
新しい何かが始まるかもしれないという、曖昧で危うい予感に。
引っ越しの準備をして、家を後にし、義父の住む家へと移った。
彼の暮らす家は、町の外れの少し古びた一軒家。
人の手が足りていないのはすぐにわかった。玄関先の植木は伸び放題、洗濯物の干し場は埃っぽく、冷蔵庫の中には出来合いの惣菜がいくつか並んでいた。
「助かるよ」と小さくつぶやいた彼の声が、静かな家の中に溶けた。
それからの数日間は、思った以上に慌ただしく、そして不思議なほど心地よかった。
朝は私が先に起きて食事を作り、彼のペースに合わせてゆっくり会話を交わす。
足が不自由とはいえ、義父は自立心のある人で、手伝おうとすると遠慮がちに首を振った。
でも、私はそれでも世話を焼いた。掃除をして、洗濯をして、食材の買い出しをして、そして時折一緒にテレビを見たり、何気ないことを話したり。
その時間が、嫌いではなかった。というより、いつしか楽しみにすらなっていた。
夫とはあまりしなかった会話が、陽一さんとは自然と続く。
言葉を選ばずとも伝わる感じがして、私は話しながら自分でも驚くほどよく笑っていた。
夜、寝る前の廊下ですれ違うとき、どちらからともなく「おやすみ」と声をかけ合った。
その瞬間が、ほんのりと心をあたためる。
一緒に過ごす時間が増えるたびに、彼の表情も柔らかくなっていくのが分かった。
料理を出すと「うまい」と言って、食べる速度が少しだけ早くなった。
窓を開けて風を通したら、「気持ちがいい」と呟いた。
掃除機の音に反応して、申し訳なさそうに座る姿が、少しだけ可愛らしく見えた。
ふと、思った。この人の世話をすることが、こんなにも心を満たすなんて。
私は今、何を求めているのだろう。刺激?変化?それとも、ただ人の温もりを感じたいだけなのだろうか。
そんなことを考えながら、私は新しい生活の中に、ゆっくりと自分の居場所を見つけ始めていた。
一緒に暮らすようになって二週間ほどが過ぎたころ、私の生活には小さな変化が積み重なっていた。
それは誰かに説明できるような劇的なものではなくて、ただ、心のなかでじんわりと広がっていくものだった。
買い物に行く道すがら、つい「お義父さんの好きそうなもの」を選ぶようになっていた。
旬の魚、少しやわらかめの煮物、糖分控えめのお菓子。
帰ってから「これは好きかしら」なんて思いながら盛り付けるのが、なんだか楽しかった。
陽一さんは、変わらず控えめで、どこか遠慮がちだった。けれど、私の差し出すものには素直に手を伸ばしてくれた。
そういう姿を見ると、どこかくすぐったいような気持ちになる。
朝、新聞を読む彼の横で、お茶を淹れる。
湯気の立つカップをテーブルに置くと、彼は少しだけ顔を上げて、目だけで「ありがとう」と言う。
たったそれだけなのに、不思議と胸があたたかくなった。
夜が近づくと、あたりは冷えてきて、窓の外には秋の終わりの気配が漂っていた。一軒家は、想像以上に冷える。
古びた床の隙間から入ってくる冷気が足元を這って、私はときどき指先をこすり合わせながら台所に立った。
その夜も、台所に立ちながら、味噌汁を温め直していた。義父が入浴を済ませた音が聞こえてくる。
毎日少しずつ寒さが増していて、浴室の温度差が気になっていた。それに、彼の足のことも。
片足が不自由な彼が、脱衣所で滑ったりしないか。湯船の出入りでふらついたりしないか。
そんなことが、ここ数日ずっと気にかかっていた。
少し考えて、私は次の日にそれとなく声をかけてみた。
「入浴、ひとりじゃ大変じゃないですか?」彼は首を振った。案の定、やんわりと断る。
気遣わせたくないという、男の人によくある遠慮だ。
でも私は、放っておけなかった。もし本当に何かあったら――そのとき後悔するのは自分だと思った。
だから、再び切り出した。介助らしいことなんて何もできないけれど、せめて見守ることくらいはしたいと。
彼はしばらく黙っていたけれど、やがて観念したようにうなずいた。
その夜から、私は彼の入浴時間の少し前に脱衣所の前に立つようになった。
タオルを渡し、バスタブの湯温を確かめ、出入りのときには手を添える。
ただそれだけのことだけど、それが私にとっては小さな役割のように思えた。
浴室から立ち上る湯気が、冬の訪れを知らせるように、じっとりと肌にまとわりついていた。
私はバスローブの上からタオルを羽織り、彼がバスタブから立ち上がるのを見守っていた。
何かをしているというよりは、ただそこに「居る」ことが大事な気がしていた。
彼は言葉少なに頭を下げるだけだったけれど、その仕草のひとつひとつが、私には丁寧に感じられた。
そして気づけば、私はそんな彼の所作ひとつひとつを、目で追うようになっていた。
背中に流れる骨のライン、湯気の中に浮かぶ肌の色、体をかばうようにして歩く姿。
それは、決して“男”として見ていたわけではない――そう思っていたはずだった。
けれど、どこかで、違う気持ちが芽生え始めていたのだと、後になって知ることになる。
あの日の、たったひとつの出来事が、それをはっきりと気づかせるのだけれど――
それは、もう少し先のことだった。
冬が深まるにつれて、家の中の空気もまた、冷え込みを増していった。暖房を入れてもどこか足りず、私は家の中でも厚手の靴下を履くようになった。でも、そんな日々の中にも、少しずつ、微かなぬくもりが残っていた。
陽一さんのいる部屋には、柔らかな毛布が一枚、重ねられている。
その上に座って一緒にテレビを見たり、お茶を飲んだりする時間は、静かだけれど、どこか心が落ち着くひとときだった。
そこには言葉があまりなくても、安心できる間があった。
ある夜のことだった。その日は少し遅い時間に入浴した。外は冷たい雨が降っていて、いつもより浴室に湯気が立ち込めていた。
石鹸が切れており、タオルを巻いて脱衣所に出る。でもどこに置いてあるかわからない。
がたがたしてる音に気付いたのか、彼が脱衣所のトビラをガラっと開いた。
私はビックリして、足元のバスマットに滑りかけ、慌てて立て直そうとした拍子に、胸元に巻いていたタオルがふわりと落ちた。
一瞬、時間が止まったように感じた。彼が目をそらす気配がしたが、すぐには動けなかった。
タオルを拾い上げながら、自分の鼓動がやけに耳に響いてくる。
恥ずかしさと、焦りと、でもそれだけではない、別の感情が心の奥から浮かび上がってくる。
視線を合わせることはなかった。でも、たしかに“見られた”という感覚だけが、皮膚の表面に残っていた。
その夜は、いつもよりも食事の時間が静かだった。彼はいつも通り箸を動かし、何もなかったかのように振る舞っていたけれど、私にはわかっていた。自分の中に、何かが芽生えてしまったことを。
自分の身体が、誰かの視線で熱を帯びるなんて、もうずっと昔のことだった。
夫とすれ違いのまま重ねてきた年月のなかで、そんな感覚はとっくに忘れていた。でも――今、胸の奥がざわついている。
布団に入っても、なかなか寝つけなかった。あのときの空気が、肌に残っているような気がした。胸元に手を置きながら、浅く息をついた。おかしい。あれはただのハプニング。見られたって、それだけのこと。なのに――
きっと、私がいちばん動揺している。
夫の父親。そのはずなのに、どうして、こんなふうに感じてしまうのだろう。
私が求めていたのは、優しさ?人の温もり?
それとも、自分が“女”として、まだ誰かに見られているという感覚?
その問いに、答えは出なかった。でも、それが始まりだったのだと、後になって気づいた。
ただの介助者と、ただの義父。その境界線が、あの夜、私の中でほんのわずかに揺れていた。
翌朝、私はいつも通り台所に立っていた。
けれど、手の動きはどこかぎこちなく、味噌汁の味見もどこか上の空だった。
あの夜の、湯気の中に溶けた空気が、まだ身体のどこかにまとわりついている。
義父の姿が見えると、私は無意識に背筋を伸ばした。お互い、何事もなかったかのように振る舞っていた。
でも、空気にはうっすらとした違和感があって、それはまるで、目をそらし続けていた感情の輪郭をなぞるようだった。
それでも、生活は淡々と続いていく。買い物に行き、洗濯物を干し、夕飯の支度をする。
寒さが一層厳しくなり、風の音が軒下を鳴らすようになっても、私たちの距離はそれ以上でも以下でもなかった。
けれど、少しずつ、少しずつ、重なる時間の中で、私は義父の手の動きや、座り方や、湯呑みに口をつける瞬間に目が行くようになっていた。それは意識というより、反射に近かった。
ふとしたときに、彼の視線がこちらに向けられていることがあった。目が合うと、すぐに逸らされた。
けれど、その数秒が、なぜか胸を締めつけた。
夜が近づくほど、家の中の空気は湿り気を帯びていった。
暖房のぬくもりが肌に優しく触れるたびに、私はどこかで、あの夜のぬくもりを思い出していた。
それは湯気の中の、揺らぐシルエット。濡れた肌の輪郭。無言のまま交錯した、目線の記憶。
義父が入浴する時間になると、私は脱衣所の近くを片付けながら、耳を澄ませるようになっていた。
滑っていないか。ちゃんと立っていられるか。理由はきっとそれだけだったはずなのに――
あの日から、私はほんの少し、呼吸が浅くなっていた。気づけば、彼の入浴が終わるまで、同じ場所に立ち尽くしていることもあった。
その夜も、彼が風呂から上がってきた音が聞こえてきた。
湯気とともにゆっくりと開かれたドアの向こうで、彼は少し驚いたような顔をしていた。
私がそこに立っているとは思わなかったのだろう。
私は笑って、「何か手伝うことはありますか」と言いかけた。けれど、その言葉は喉の奥で止まった。
彼も、何も言わなかった。沈黙のまま、私たちはほんの一瞬、目を合わせた。
けれど、それはただの目線ではなかった。熱を帯びたまなざしの端に、あの日の記憶がふたたび浮かび上がったようだった。
彼も、何も言わず、足音を立てないように部屋へ戻っていった。
その夜は、眠りが浅かった。
眠っているのか、まどろんでいるのか、自分でもわからないほどの意識の中で、私は何度も布団の端を握りしめた。
夫のいない家。義父と私。どこかにあるはずの“線”が、徐々に薄れていく感覚があった。
そして気づいてしまった。その線を越えてしまうのは、もしかすると、とても静かで、あまりにも自然な瞬間なのかもしれないと。
日が短くなった。
午後五時にはもう、外はすっかり夕暮れ色に染まり、窓の外の空は灰色に沈んでいた。
義父と並んで食卓につく時間が、ほんのりと灯る電灯のもとで、より親密に感じられるようになったのは、この季節のせいだろうか。
それとも、他に理由があるのだろうか。
食事のあいだ、ふたりの会話は相変わらず少なかった。
でもその静けさが、心地よいと感じるようになっていた。スープの器が重なり、湯気がのぼる。
義父は、私の作る味を素直に受け止めてくれる。
ひと口ごとに、表情を緩めながら食べ進める様子を見ていると、不思議と満たされた気持ちになった。
そして私は、彼の口元や手元を、目で追っていた。
箸を動かす指の節、茶碗を支える手の甲に浮かぶ血管、そのどれもが妙に落ち着いていて、見ているだけで胸の奥がざわついた。
昔は、こんなふうに男の人の“手”に意識を向けたことなんてなかった。
なのに、今はそこに目がいってしまう。
食後、食器を片付けていると、背後で彼が咳払いをする音が聞こえた。
振り返ると、彼はふと目を伏せて立っていた。何かを言いたげな空気だったけれど、言葉にはならなかった。
私は静かに微笑み、うなずいた。何を伝えたわけでもないのに、彼の頬がわずかにゆるんだ。
夜、眠る前に部屋の明かりを落とすと、私は一人、布団の中で天井を見つめていた。
あの空気の震えを、まだ胸の奥で感じている。きっかけは些細なことだった。でも、それがずっと尾を引いている。
あの夜から、私の中で何かがずっと熱を持ち続けている。
夫と最後に肌を重ねたのは、いつだったろう。求められることも、求めることもなくなって、もう何年も経つ。
だから私はずっと、女としての自分を“しまって”生きてきたのだと思っていた。
でも、それは消えたわけではなかった。ただ、静かに眠っていただけなのかもしれない。
義父の視線がふと熱を持ったとき、彼の指先が近くをかすめたとき、
その“しまっていた何か”が、音もなく目を覚ますのを感じた。
私はまだ、誰かに触れてほしいと思っていたのだ。優しさでも、欲でもいい。
ただ、女として誰かに見られることを、心のどこかでずっと願っていたのかもしれない。
それが、よりにもよって義父だなんて――
理性は笑う。でも身体は、笑えなかった。
翌朝、私は台所で味噌をときながら、ぼんやりと考えていた。
もし、このまま時間が流れれば、どこかのタイミングで、私たちは境界を越えるのではないか。
それはきっと、ある日、ふとした拍子に起きる。
言葉ではなく、目線と呼吸と、沈黙だけが合図になるような、そんな瞬間が。
そして私は――そのときを、恐れているはずなのに、どこかで待っている気がしていた。