戸田明弘は、暗いリビングで真央の気配を感じながら息を詰めていた。時計の針の音が、妙に大きく響く。ふとした瞬間、彼女が微かに身じろぎし、その動きが妙に生々しく胸に焼きつく。数センチ先に座る彼女の存在が、苦しいほどに意識を占めていた。
灯りを落とした部屋に、月明かりが窓越しに差し込み、真央の頬を柔らかく照らし出していた。触れてはならない、越えてはいけないと分かっているのに、視線がどうしても逸らせない。
「明弘さん……」
ふいに、真央が囁くように名前を呼んだ。その声が夜の静寂を裂き、心が震えた。彼女が少しこちらに身を寄せたとき、その微かな体温と、どこか懐かしい香りが、理性の薄氷をゆっくりと溶かしていくのを感じる。自分の中の何かが「まずい」と警鐘を鳴らすのに、それに抗うようにただ彼女のぬくもりに引き寄せられていく。
二人の手がふと触れ合った瞬間、すべてが崩れ落ちた。ほんの一瞬でいい、罪悪感さえも飲み込むほどの甘美なひとときに身を任せてしまったのだ。二人の影が月明かりの中で溶け合う。翌朝、あの温もりは幻だったかのように消え去っていたが、明弘の胸には「してはならないことをしてしまった」という冷たい刃のような感覚が残った。
それからの日々、明弘は妻の不在が生み出した「空白」を意識せざるを得なくなった。智美は実家の介護のために田舎へ帰省しており、彼の家にはぽっかりとした孤独が広がっていた。智美の実家では、義母が大腿骨を骨折し、数ヶ月間の世話が必要となっていた。義父の面倒を見るため、三姉妹が順番に1カ月ごと実家に帰省することになり、妻も例外ではなかった。
妻が1カ月もいないのは少々不安だったが、智美の代わりに義姉の真央が、家事の手伝いを引き受けてくれたため、多少その不安は和らいでいた。というのも、真央は毎日のように明弘の家を訪れてくれたのだ。もともとは「たまに、手伝いに行く」という約束を姉妹でしていたはずだったのだが、いつの間にか彼女は洗濯や掃除、食事の支度まで引き受け、まるでそこが自分の家であるかのように明るく振る舞っていた。
真央がいることで、家には安らぎに包まれており仕事に集中できていた。妻がいない心に広がる虚しさが、彼女の存在がかき消してくれているのを自覚する。家に帰ると彼女の手料理が用意されており、その食卓は智美のものとはまた違った味わいがあった。彼女は元飲食店で働いていたこともあり、料理は素材の香りが立ち、彩り豊かな盛り付けにも隙がない。夕食のたびに漂う懐かしい香りが、心の奥に静かに染み込んでいった。
「今日もお仕事、お疲れ様」と、真央が晩酌のグラスを明弘に手渡すたび、ふとした瞬間に視線が交わる。そのたびに胸がざわめき、理性が薄れるのを感じていた。「まずい」と思うのに、目の前の光景に抗えない自分がそこにいた。
ある夜、明弘は思い切って彼女に尋ねた。「ずっとこっちに来ててもいいの?お義兄さんのこと、大丈夫?」と。少しの沈黙のあと、真央は遠くを見るような視線を浮かべ、ため息をついた。「…今月は漁の日だから大丈夫よ」。その声には、諦めと寂しさが滲んでいた。
「漁の日」とは、彼女の夫が遠洋の調査に出かける日を意味していた。義兄は海洋資源の調査員として数ヶ月にわたり遠洋に出るような仕事をしている。彼女の表情を見ていると、家に一人でいる寂しさに溢れていた。
「一人は寂しいよな」と、ぽつりと呟いた瞬間、真央がこちらを見つめ返した。彼の言葉に応えるように、彼女の目には一瞬の揺らぎが見えた。それが胸に刺さり、心臓が高鳴る。だが、二人の間に漂う微かな緊張感を言葉にすることは、誰もできなかった。
それから、二人の日常はどこか夫婦のような錯覚を伴って流れていった。ある日、真央が一緒にお酒を飲むと言い出し、グラスを重ねるうちに、彼女の言葉がふと柔らかくなる。そして、しばらくの沈黙の後、真央がぽつりと呟いた。
「明弘さん…寂しくないの?智美がいないのに…」
その問いかけに、明弘の心に押し込めていた感情が崩れ出した。「…もちろん寂しいよ。でも、真央さんが毎日来てくれてるから、大丈夫…かな」と、思わず本音を漏らしてしまう。その瞬間、二人の視線が再び絡み合い、言葉にできない何かが空気を漂った。沈黙の中、互いの存在が静かに求め合うようだった。
二人の距離はさらに縮まり、互いの温もりを肌で感じるまで求めあった。いつしか、二人は妻がいない期間だけの「仮の夫婦」としての関係を受け入れつつあった。智美の不在が生み出した空白を、真央の存在が静かに埋めていった。
やがて、智美が実家から戻り、日常が「本来の姿」に戻ったはずだった。しかし、それからも真央は頻繁に訪れるようになった。智美も「お姉ちゃん、もう自分の家でゆっくりしてもいいんだよ」と柔らかく促したが、真央は冗談めかして「夫が戻ってくるまで、あと二ヶ月あるから」と言って笑うばかりだった。
智美は、姉が寂しさを紛らわしたいのだと思っているのか、特に深く追及しなかった。だが、明弘だけがその日々に薄暗い影を感じていた。妻の目を盗むように、真央がふと彼に触れ、「また夕飯、作ってあげるわね」と囁くたびに、心が揺れ、冷や汗が流れるのを止められなかった。
そしてある日、突然の知らせが舞い込んだ。真央が妊娠したという。智美は心から喜び、「お姉ちゃん、おめでとう!」と祝いの席を設け、笑顔で祝福していた。しかし、明弘だけは、その笑顔の輪の中でどこか遠くにいるような感覚を覚えていた。
ふと目を上げると、真央と視線が交わる。その瞬間、彼女の瞳に浮かんだ微かな感情が、胸に鋭く刺さった。心の奥底で押し込めていた疑念が頭をもたげ、胸がざわつく。
「この子は本当に義兄の子なのだろうか…」
祝福の声に包まれる中、明弘の心には冷たい波が打ち寄せ続けていた。誰にも言えない問いが胸の中で渦を巻き、夜が深まっても静まることのないざわめきが、彼を飲み込んでいった。
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