秋の風は冷たく、肌を刺す感覚が心の奥まで響いていた。この季節になると、亡くなった母を思い出さずにはいられない。失った記憶を胸に抱えながら、私はいつものように田中さんの家へ向かっていた。手には煮物や卵焼き、ほうれん草のおひたしを詰めた籠を抱え、少し急ぎ足で。田中さんの「ありがとう」という笑顔が、心の底に沈む後悔をほんの少しだけ和らげてくれる気がするからだ。
田中さんは、ヘルパーの仕事を通じて出会った近所のお母さんだ。高齢で体が不自由になった彼女のサポートを続けるうちに、どこか母を重ねるようになっていた。いつのまにか、仕事以外でも田中さんのお家を訪れお世話をするようになっていた。
母を亡くしたとき、私は最後に手を握ることさえできなかった。その後悔が、心の奥底でいつまでも燻り続けている。それが田中さんの世話をする理由のすべてではないにしても、少なからず動機の一つにはなっているのだと思う。
「こんにちは、田中さん。今日の調子はいかがですか?」
玄関を開けると、田中さんはいつものように柔らかな笑顔で出迎えてくれた。「待ってたよ」というその一言が、私の心にじんわりと温かさを広げていく。私は靴を脱ぎ、手早くキッチンに向かうと、籠からおかずを取り出して食卓に並べ始めた。何気ない会話だけれど、その穏やかな声に耳を傾けていると、自分がここにいる理由を改めて実感する。
「おかげで今日も助かったわ」と田中さんがほほ笑む。その笑顔に救われるのは、むしろ私のほうだった。
そんな時間を過ごしていると、少し遅れて田中さんの息子、秋広さんが帰宅した。彼は田中さんの息子らしからぬ、やや不器用な雰囲気を持った男性だ。真面目だがかなり口数が少ない男性で、どことなく壁を感じさせる。それでも、彼がちらりとこちらを見て「いつもありがとうございます」と控えめに言う姿からは、私の訪問をどこか頼りにしているような気配が感じられる。
「いえ、大したことではありませんから」と笑顔で返しながら、ふと彼の無表情に目を留める。何か言いたげだけれど言えない……そんな寂しさを、ほんの一瞬だけ垣間見た気がして、胸が少し疼いた。その気持ちに名前をつけることはできない。ただ、気づけば私は彼のために何かしてあげたいと思っている自分にも気づく。
週末の訪問は、いつの間にか私の日課になっていた。平日は別のヘルパーさんが通ってくれるが、週末だけは私がこの家を訪れる。そのような中で、秋広さんとの会話も少しずつ増えていった。最初は田中さんの介護や家事についての話だけだったものが、徐々に彼自身のことに触れるようになった。
「年を取るって嫌ですよね。だんだんと母も弱ってきて。僕も一人だし…」
ふと彼が漏らした言葉に、私の胸が締め付けられるようだった。その言葉の裏に、彼が今もかつての家庭の温かさを求めているのが伝わってくる。それを知ると、どうしても放っておけない気持ちが芽生えてしまう自分がいた。
一方で、私の家では冷たい沈黙が支配する時間が増えていた。
夫との会話はすっかり減り、同じ部屋にいてもそれぞれが別の世界に閉じこもっているようだった。夫は新聞を広げながら、必要最低限の言葉しか交わさない。それでも、週末のたびに「田中さんのお世話をしてくるね」という私の説明にも彼はあまり興味すら持つこともなかった。その無関心がむしろ私を苛立たせ、そして同時に罪悪感を薄れさせる。
そんな折、田中さんが隣町の施設に入所することが決まった。高齢と体調の問題から、家での介護が難しくなったためだという。送り出す準備をしているとき、田中さんは笑顔で「いろいろお世話になりました」と言ってくれた。その言葉に救われた一方で、施設に入所することでこの家に通う理由がなくなってしまうことに、どうしようもない寂しさを感じた。
施設へ入る日お手伝いをしていると、「いままでありがとうね。もし、茜さんが良ければたまに息子の秋広のことも見てあげてくれないかねえ」
「もちろんです!私が見ていますから、田中さんも元気で過ごして下さいね!私も遊びに行きますから」
田中さんは満面の笑みで「ありがとう」という言葉を残して、施設の車に乗り込んでいった。
そして田中さんがいなくなった家は、急に静かになった。本当はもう来る必要はない。それでも、私は週末になると煮物やおひたしを作って、秋広さんの家へ足を運んだ。田中さんに言われたからだけじゃなかった。私がどうしても秋広さんを放っておけなかったのだ。もちろん罪悪感がなかったわけではない。それでも、秋広さんが「ありがとうございます」と小さな声で言う、その一言がどうしても私の心を惹きつけてやまなかった。
ある日、秋広さんがぽつりと言った。
「……母がいなくなったのにいつも来ていただいて、本当に助かっています。あなたが来てくれて本当に僕の心は救われてます……」
その言葉に、一瞬だけ胸の奥が軋むようだった。彼が母親の写真を見つめる横顔に、あの頃の私と重なるものを感じていたのかもしれない。何も気の利いた言葉を返せず、ただ「気にしないでください。私が好きでしてるだけですから」と笑うだけだった。でも、心の中でははっきりとわかっていた。私がこの家に通う理由が、秋広さんに会いたい。この人と一緒にいたいと思っているからだということを。
それでも、夫のことを思うと胸が痛む。今の私を知ったら、彼はどんな顔をするだろうか。けれど、その問いに答えを出すことはできない。答えを出す代わりに、また週末が近づくと、私はせっせとおかずを作る。そして、秋広さんの家へ向かうのだ。
玄関の扉が開き、彼が静かに迎えてくれる。彼とのひとときも一瞬で終わる。
「また来週もきますね」私の言葉に、彼のその目の奥に浮かぶ微かな光が、私を引き止めている気がした。けれど、その背後には、私を待つもう一つの家があることを忘れたわけではなかった。